【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、馬の仕上げ方を変えた。敏感になって扱いにくくなった担当馬に、厩務員のゆり子が弾き飛ばされた。
厩舎を出たシェリーラブが、突然、後ろ脚で立ち上がった。曳き手綱を持っていたゆり子が弾き飛ばされ、馬道に投げ出された。
――何をやってるんだ。
伊次郎は、右手を頭上にかざし、手のひらをシェリーラブに向けた。
「ほーら、いい子だ」と伊次郎が言うと、シェリーラブは後ろに絞っていた耳をこちらに向けた。
「よーし、よし」と、ゆっくりシェリーラブに近づき、曳き手綱をつかんだ。そして、うつぶせていたゆり子を左腕で抱え上げた。幸い、近くに他厩舎の馬はおらず、騒ぎにはならなかった。
しかし、だ。
――おい、冗談だろう。
伊次郎は驚いていた。シェリーラブの暴れっぷりにではなく、左腕で抱えたゆり子の軽さに、である。
子供のころ、ひと目見ただけで他人の体重を言い当てることを特技としていた伊次郎は、今でも、人や馬の体重を正確に見抜く自信がある。
ところが、ゆり子に関しては、少なくとも5キロは見誤っていた。160センチ弱の身長にしては細めの45キロぐらいだろうと思っていたのだが、こうして抱えた感じでは、40キロを切っているかもしれない。
――ひょっとしたら、こいつ、深刻な病気なんじゃないか……。
顔色もよくないし、昨夜のほころびのマスターの言葉も気になっていた。
先にシェリーラブを馬房に戻し、それからゆり子を大仲の椅子に座らせた。
気を失っていると思っていたのだが、薄目をあけてこちらを見ている。
「せ、先生……」と言う唇が切れて、血がにじんでいる。
「ゆり子、何があったんだ」と伊次郎は床に膝をつき、顔を覗き込んだ。ゆり子が小さく口を動かし、何かを言おうとしている。
「わ、わたし……」と絞り出すように言ったゆり子の目から涙が流れ出した。
「どうしたんだ」
「……」
「なんだって?」
聞きとれなかったので、ゆり子の口元に耳を近づけた。吐息が少しくすぐったい。
「お……」と、ゆり子。
「お……、なんだ?」
「お腹が、すいた」
「は?」
全身から力が抜けた。
グルルルーッと、ゆり子のお腹の鳴る音が聞こえた。
「お前、ダイエットでもしてるのか」
「違うよ」
「じゃあ、なんでブッ倒れるまでメシを食わずにいるんだ」
「ムーちゃんだけじゃ、かわいそうだから」
「あ?」
「ムーちゃんだけカイバを減らされて我慢しているのを見るのはつらいから、わたしも一緒に……」
「そういうことか。でもな、シェリーラブは、お前ほど腹をすかしてないぞ」
「なんでそんなことがわかるの」
「走る馬は、レースが近づくと、運動と栄養と代謝のバランスをとって、自分で体をつくるんだ。おれたちは、シェリーラブもそれをギリギリのところでできるよう、カイバと運動をコントロールしているんだよ」
「そうなんだ……」
「シェリーラブのことはおれに任せて、どこかで何か腹に入れてこい」
伊次郎がそう言うと、ゆり子はペコリと頭を下げて、大仲から出て行った。
その日、シェリーラブの追い切りに乗った藤村は、軽い興奮状態だった。
「いやあ、ずっと引っ張り切りで、腕がパンパンになりました。この馬に、こんなパワーがあったんですね」
「こいつをテンから追っぱなしたらどうなると思う?」
伊次郎が訊くと、藤村は驚いたような顔をした。
「そんなことをしたら、すぐガス欠になっちゃうんじゃないですか」
「それをもたせるのが乗り役の腕だろう」
「はあ……」
「とにかく、オーバーペース気味にビュンビュン飛ばせ。イメージとしては、ゴール前50mでバタバタになる感じだ」
藤村は、道中ゆっくり行って溜める競馬をしたがっている。だが、手応えのわりには伸びない競馬がつづいているからこそ、馬のつくり方を含めた戦術を変えたのだ。
他厩舎の馬がカラまれるのを嫌がるほど徳田厩舎の馬はテンから飛ばす――そうしたイメージを定着させながら、逃げの手がハマるときが来るまで同じ戦術をつづける。何レースかにひとつは必ず逃げ切りで決まる。競馬から逃げ切りがなくならない限り、逃げつづける徳田厩舎の馬は勝つはずだ。いろいろな戦術をとって、毎回ベストのレースから少しずつズレてしまうより、「止まった時計」になって、時間のほうがこちらに合わせてくれるのを待つほうがいい。
「とにかく頼んだぞ、逃げの藤村」と伊次郎は藤村の肩に手を置いた。
「ぼ、ぼくが、逃げの藤村……ですか」
「そうだ。ビビリの藤村、二流半の藤村で終わるよりはいいだろう」
「ハハハ、そうですね」と泣き笑いのような目になった藤村が言葉をつづけた。「わかりました。それが前に先生が言っていた『単機能作戦』ですか。ほかの厩舎から騎乗依頼がなくなって食えなくなったら、ここで助手として雇ってもらいます」
「うむ、その意気だ」
ふたりのやり取りを、センさんと宇野が口を半びらきにして聞いている。
「お前らの馬も、全部逃げ馬にする」
伊次郎の言葉に、センさんと宇野は黙って頷いた。
そこに、口の端に青のりをつけたゆり子が戻ってきた。
「ん、みんなどうしたの? 深刻な顔しちゃって」
誰もそれには答えず、おのおの仕事に戻って行った。
単機能作戦をスタートしてからの初戦は3日後の水曜日。シェリーラブが、左回りのマイル戦に出走する。
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。
■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。
■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。