【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、その1番手としてレースに出た牝馬のシェリーラブが軽快に逃げ切り、厩舎初勝利を挙げた。次に出走した牡馬のトクマルもハナを譲らず、先頭のまま直線に入った。
トクマルが、矢島が乗る本命馬の外にぴったり併せ、先頭で直線に入った。
さっきまで並走していた小林の馬は2馬身ほど置かれ、急激にペースアップしてきた後続に呑み込まれようとしている。
ラスト200メートル地点。内の矢島の手はまだ動いていない。
トクマルに乗る藤村が、右で2度、すぐさま左でまた2度、見せ鞭をした。
小林の馬は馬群に吸収され、さらに後退して行く。替わってほかの馬が伸びてくるか……と思いきや、前の2頭との差は縮まらない。
その差と手応えからして、勝つのは、トクマルか矢島の馬のどちらかだ。
矢島が強烈な左ステッキを振るい、トクマルに馬体を寄せてきた。「カチッ!」と鐙と鐙がぶつかる音が聴こえてくるかのようだった。
藤村が、また見せ鞭をした。それに反応し、トクマルがグイッと首を下げた。
――まだバテていないな。
ラスト100メートル。内の矢島の馬がわずかに前に出た。
それでも藤村はトクマルに鞭を入れない。
――最後の爆発力にかけているのか。それとも、叩いて反発される可能性を恐れているのか?
前走までのトクマルなら、どれだけ叩いても知らん顔だったが、ギリギリまで体を絞った今は、全身のセンサーがちょっとの刺激で振り切れるほど過敏になっている。
ラスト50メートル地点で、トクマルが矢島の馬から半馬身ほど遅れ出した。
――どうした、これで終わりか?
伊次郎の思いが通じたかのように、藤村がアクションを起こした。矢島の馬から馬体を離すべく、左の見せ鞭をし、そのまま尻に一発、バシッと逆鞭を入れた。
すると、トクマルが、ピョーンと右前方にジャンプした。
スタンドがどよめいた。
藤村は後ろを確認しながら右に鞭を持ち替え、いわゆる「外鞭」を入れて内に進路を修正しようとした。が、トクマルはまた右にピョーンと飛んだ。そのまま外埒のほうまで斜めに走り、修正し切れないまま、矢島の馬から2馬身ほど遅れてゴールした。
2着。徳田厩舎初の出走機会連勝という奇跡は起きなかった。
「すみません。調教でも鞭を使って、反応を確かめておくべきでした」
検量室前で下馬した矢島が口元を歪めた。
伊次郎は首を横に振った。
「いや、あれは調教師の責任だ。謝らなきゃならないのはおれのほうだ」
藤村は、トクマルが右に飛んだとき、「馬は叩かれた側と反対方向に進む」という基本どおり右を叩いて軌道修正しようとした。なのにトクマルはまた右に飛んだ。これは、ハンドルを左に切ったのに右に曲がったようなものだから、操縦者が悪いのではなく、仕上げた調教師のミスである。
競走馬のゲート入り、掛かり癖、逸走などの悪癖はもちろん、レース中の故障などもすべて調教師が責任を負うべきだ――というのが伊次郎の考え方だ。
それでも藤村は、勝てるレースを落としたという意識があるせいか、「宇野さん、申し訳ない」とトクマルを曳く宇野にも頭を下げた。
宇野が怒ったような顔をした。
「何言ってんだ。トクにとっちゃ、生涯最高の走りだったじゃねえか。負けはしたけど、スタートからゴールまで一番長い距離を、一番速く走ったのは間違いなくトクだぜ。強くなった、ってことがわかっただけも収穫だよ」
いい結果が出れば自分の手柄、失敗したら人のせいという生き方をしてきた宇野の変わりように、伊次郎は驚いていた。
「それはいいけど、宇野よ」と伊次郎は言い、つづけた。「お前が何度も『トク、トク』と言うもんだから、まるでおれが褒められているような気分だよ」
「……」
宇野もセンさんもゆり子も、検量室前にいた藤村やほかの騎手たちも固まった。
数秒の間を置いて、宇野がプーッと吹き出した。
「先生がギャグ言ったよ」
「わたしもビックリした」とゆり子。「面白くないけど、初めてだよね?」
「ああ、たすかにおもすろくねえけど、それが笑えるべさ」とセンさんまで涙目になっている。
宇野は、「トクは『徳田』のトクじゃなく、『特別』のトクだよ。なあ、トク?」と笑い、トクマルを厩舎地区へと曳いて行った。
冗談を言ったつもりなどなかった伊次郎は、周りの反応に戸惑い、自分も笑うべきなのかどうか考えてしまった。そして、いつの間にか自分の眉間に深いしわが刻まれていることに気がついた。
「あ、すいません」と真顔になった藤村と、ほかの騎手たちが検量室の奥に消えた。
「さあ、馬っこさ洗わねば」とセンさんが背を向け、「わたしも厩舎に行く」とゆり子もいなくなった。
別に怒っているわけではないのだが、この顔はどうしても、真の感情とは関係なしに人を遠ざけてしまうようだ。
同じように仏頂面をした矢島が、次のレースで使う鞍を手にして言った。
「徳田。お前の厩舎、いい競馬をするようになってきたな」
「ありがとうございます」
「どうだ、主戦騎手を考え直してみる気はないか」
自分に乗せろ、という意味だろうか。
――うちの馬に、名手・矢島が……!?
じっと睨み合う、南関東1、2の悪人顔のふたりから、どの関係者も忍び足で逃げるように離れて行った。
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。
■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。
■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。
■矢島(やじま)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。
■小林(こばやし)
若手のなかでは飛び抜けた成績を残している騎手。