【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチで連勝した。そんなとき、馬主がクノイチを中央に移籍させようと考えているらしい、という噂が飛び込んできた。
「先生、ご覧になりますか」と、宇野の妻の美香が、エクセルをプリントアウトしたものを差し出した。
「なんだ、これは」と伊次郎。
「先生のお父様が厩舎を経営していたころから、古井戸オーナーがどれだけ預託料を滞納しているか、帳簿と伝票を20年ほどさかのぼって調べたものです」
古井戸というのはクノイチの馬主である。
表を見た伊次郎は絶句した。ざっと計算しただけで500万円以上も未納になっている。
――なるほど。これじゃあ親父が金で苦労したわけだ。
伊次郎の代になってからも、支払いが遅れたり、半額だけ振り込まれたりということが何度かあった。
「このコピーを内容証明として古井戸オーナーの会社に送りつけましょう」と美香が強い口調で言った。彼女も今回の一方的な移籍話に相当腹を立てているらしい。
「いや、そこまですると角が立つ」
「もう立ってます!」
「まあ、そうムキになるな」と、伊次郎はエクセルのコピーを丁寧にたたんでジャケットの内ポケットに入れた。
「これは確かに預かった。今から古井戸さんの会社に行ってくる」
美香がさらに何か言いたそうにしていたが、振り切るように伊次郎は大仲を出た。
伊次郎が、競馬場の事務所前の車寄せを横切ろうとしたときのことだった。黒いメルセデスのSクラスがゆっくりと近づいてきた。運転席の窓がすうっとあき、「ベンツの似合う人コンテスト」をしたら優勝しそうなゴツい顔が出てきた。
騎手の矢島である。
「おう、古井戸のところに行くのか」
「はい」
「なら、乗ってけ。クノイチの主戦騎手として、おれも同行する」
「助かります」
S300hは滑るように動き出した。
「徳田、古井戸のタヌキ親父にはアポを入れたのか」
「いえ、前もって知らせたら逃げられるでしょうから、急襲します」
「それがいい」
伊次郎は、この手の交渉が苦手だった。相手の顔色を見ながらこちらの語調を変え、提示する条件を考える……といった小技を使う前に、この顔のせいで、相手が態度を硬直させてしまうからだ。そこに矢島が加わったら火に油を注ぐことになるのではないか。いや、この男は策士だから、相手の弱みを突きながらの押し引きのコツを心得ているはずだ。
「有限会社古井戸製作所」は東京都大田区の町工場が立ち並ぶ一帯にあった。
狭い玄関脇にクルマを停めてふたりが降りると、向かいの工場からパタンと窓を閉める音が聞こえた。斜め向かいの2階の窓も、男の顔が一瞬見えたと思ったら、もう閉まっていた。
伊次郎と矢島は、債権取り立てを依頼されたその筋の者に間違われたらしい。
――まあ、しかし、同じようなことをしに来たわけか。
気が重かった。
白いスーツにサングラスという矢島は、呼び鈴も押さずに古井戸製作所にズカズカと入って行く。そして、「社長室」と手書きの札が貼られた扉を押しあけた。
老眼鏡をズリ下げた古井戸が、ほうけたように口をあけている。そして、状況を察したのか、矢島と伊次郎を蔑むような笑みを浮かべた。その顔を見た伊次郎の胸に、自分でも予期していなかった激しい怒りが沸き上がってきた。
「古井戸さん……」と言いかけた伊次郎の目の前で、不意に矢島が跪いた。そのまま床に両手をついて土下座をし、「社長、クノイチの中央移籍の件、どうか考え直してください」と涙声で言った。
少しの間驚いたような顔をしていた古井戸は、「考え直せと言われてもねえ」と薄い胸をふんぞり返らせ、口元を歪めた。
矢島は声を震わせた。
「社長が滞納した預託料を、中央の高額な賞金で、金利を含めて返納したいというお気持ちはよくわかります」
「た、滞納……。金利……」と、古井戸はこのふたつの単語に反応した。
「今なら年利3パーセントで計算しても2000万円ほどで済みます。それを、この先中央に移籍してレースに向けて仕上げ、走って、いくらかの賞金が数カ月後、いやもっと先に振り込まれてから返済しては、さらに高額になります」と矢島。
「に、2000万……?」
長年にわたっているので、複利だと優にそのくらいになる。この規模の工場にとっては痛い出費に違いない。
「私は、今すぐこの工場の機器類を換金するよう業者に手配するなど、鬼のようなことはしたくありません」
「換金だと?」
「はい」と矢島は両手をつき、頭を下げたままつづけた。「クノイチがこれからも南関東で走りつづければ、確実に重賞をひとつかふたつ獲ります。適性が定かでない中央で大バクチを打つより、御社の債権縮小に確実に貢献するでしょう。このまま徳田厩舎に置いてもらえるなら、金利ぶんには目をつぶってもいいと調教師は言っています」
伊次郎はそんなことはひと言も言っていない。
「そういうことなら……」と古井戸は椅子に深く座り直した。
「そういうことなら、なんでしょう?」と矢島。
「なんでしょうも何も、私は最初からクノイチを移籍させる気などなかったんだよ」と古井戸は眉を上げた。
「は?」と矢島と伊次郎が声を揃えた。
「専務だよ。うちの専務が、新聞記者の言葉に乗せられて移籍だなんだと言い出してね」
「では、専務を呼んでください」
呼び出された専務というのは古井戸の長男だった。年齢は伊次郎ぐらいか。自分のどこが偉いと思っているのか、父親同様、伊次郎たちをあざ笑うような目をしている。それが伊次郎には、地方競馬を見下す笑いに見えた。おかしなことだが、当事者である地方の厩舎関係者にも同種の笑いを浮かべた者が多く、ただでさえ笑うことのできない伊次郎は、いつも不快に感じていた。
「なあ、専務。私はクノイチの移籍なんて、これっぽっちも言ってないよな」と、古井戸に目で合図され、息子の専務は渋々「はい」と頷いた。
すると矢島が立ち上がった。胸から出した右手にはICレコーダーが握られている。
「男に二言はねえよな、古井戸。そして、そこのバカ息子」と、いつもの不敵な矢島力也に戻っていた。自分の汚い言葉は録音しないよう、スイッチをオフにしてある。
「あ、あ……」と口をパクパクさせる古井戸の声を再生させながら、矢島は、「あーあ、人に土下座までさせやがって」とドカッとソファに腰掛けた。そして、滞納金に関する書類を矢島に差し出した。それは美香が作成したものだった。
帰りの車中で伊次郎が言った。
「クノイチのために、ありがとうございました」
「何言ってる。おれは自分のためにやったんだ。それに……」
「はい?」
「古井戸を追い込んだのは、お前の厩舎の事務員に言われたとおりにやっただけだ」
怒りで顔を紅潮させた美香の顔が思い出された。
「次はどうする?」と矢島が訊いた。
「次?」
「クノイチの次走だ」
「レディーススプリントにしようと思っています」
レディーススプリントは、ダート1400メートルの牝馬限定の重賞である。1着賞金は2100万円。
「そうか」
「前走から距離を縮めたところを使いたかったのですが、適鞍がなくて……」
「バカヤロー。今のクノイチにはレディーススプリントが適鞍だ」
「矢島さんにそう言ってもらえると心強いです」
「いよいよだな」
「はい」と答えながら、どうして矢島がここまで骨を折ってくれるのか、ふと疑問に感じた。その疑問はしかし、車内に入り込んできた寝藁の匂いによって、すぐにかすんでしまった。
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。トクマルを担当。
■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。クノイチを担当。
■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。
■矢島力也(やじま りきや)
人相の悪いベテラン騎手。リーディング上位の豪腕。
■古井戸富士雄(ふるいど ふじお)
クノイチのオーナー。東京・大田区の有限会社古井戸製作所社長。