▲2頭でのんびり日向ぼっこをするコロスケ(左)とタイビスマルク(右)
(前回のつづき)
観光客にも近寄っていくくらい人間が大好き
東京の乗馬クラブで出会った愛馬コロスケが蹄葉炎を発症し、村石由美恵さんはコロスケの体を考えて長野の牧場へと馬を移動した。ある日、長野の牧場に到着した馬運車から、美しいラインを持つ1頭の馬が降りてきた。
「思わずホーッと見惚れてしまうくらい綺麗でした」
この美しい馬が村石さんの2頭目の愛馬になるとは、その時は予想だにしなかった。けれども牧場側が売り馬として仕入れたその馬は、脚を痛めたこともあって購入者が現れず、処遇が危うくなっていた。
「馬運車から降りてきた時の姿をたまたま目にしましたし、脚を痛めてから馬が暗くなっていった状況も見ていましたからね」。結局、村石さんは、牧場からその美しい馬を買い取った。
美しい馬の名はタイビスマルク。1992年4月5日に、父ミスターシービー、母タイアオバの間に北海道新冠町のメイタイ牧場で生まれた。
母タイアオバは、ダイナカールが勝った1983年のオークスの2着馬だ。ゴール後、電光掲示板に馬番が1頭も表示されず、5着まで写真判定となった史上稀にみる大接戦。ダイナカールとタイアオバの着差も、わずかハナの差。陣営にとっては、さぞ悔しい2着だったに違いない。
タイビスマルクは繁殖となったタイアオバの3番仔にあたる。母も管理していた栗東の吉岡八郎厩舎から1995年3月にデビューし、最後のレースとなった1996年9月の夕月特別(900万下)まで19戦3勝の成績を残している。
「マル(タイビスマルクの愛称)が9歳の時に、私と出会いました。愛知県の乗馬クラブから長野県の牧場へとやって来たんですよね」。そして前述した通り、マルは村石さんの2頭目の愛馬となる。
「コロスケとマルは、最初から仲が良かったんです。2頭一緒に放牧をしていても、ほとんど喧嘩はしませんでした。コロスケが7つ上でしたし、精神的にはおじいちゃん(コロスケの愛称)の方が強くて、マルがイタズラをしてきてもそれに対して動じないという感じでしたよ。
まだマルが長野の牧場にやって来たばかりの頃、隣の放牧地にいた馬と柵越しに喧嘩になったことがあるんです。その時におじいちゃんが仲裁に入って、喧嘩を止めたこともありましたね。マルもまだ9歳でしたし、若気の至りですよね(笑)。その頃は、かすり傷も多かったですしね。ヤンチャな面もあったけど、頭が良くて、経験を積み重ねて学習をしていく子でした。だから怪我をしてもそれを糧にして、少しずつ大人になっていく。そういう子でした」
▲ある雪の日に仲良く2頭で歩くタイビスマルク(前)とコロスケ(後)
放牧地でくつろぐ2頭の写真を前に、村石さんはエピソードを次々と話してくれた。
「おじいちゃんの方がマルより体がひと回り小さいので、小回りがきくんですよ。だから起伏のある場所でもピョンピョン、上ったり下りたりするんです。でもマルはそれができないものだから、羨ましそうに見ていましたね(笑)」
慢性の蹄葉炎を患っていたコロスケが過ごしやすい場所を求めて、長野県から埼玉県、そして山梨県の小須田牧場とその時の状況に合わせて2頭の繋養場所は変わった。
「マルは基本的には穏やかで良い子でしたけど、馬運車になかなか乗ってくれないんです。ここ(小須田牧場)に運ぶ時も、なかなか乗らなかったんですよ。一方、おじいちゃんは競技会などどこに行くのでも、馬運車にはスンナリ乗るんです。だからおじいちゃんを先に入れてみたら、マルも乗ってくれたんですよね。
最もおじいちゃんと私は信頼関係ができていましたし、ママの行くところは絶対だと思っているから、馬運車にもポーンと乗ってくれるのでしょうね。でもマルとの関係は、まだそこまで行っていなかったですし、マルの中では馬運車イコール、競馬というのがあったのだと思いますね。小須田牧場に到着するまで馬運車内の板を蹴りっぱなしだったみたいです(笑)。よほど走るのが嫌だったのではないでしょうかね」
サラブレッドは走るために生まれてきたというけれど、速さを競う競馬は心身ともにストレスが大きく、馬にとって決して楽しいものではない。馬場入りやゲート入りを拒否する馬を目にするたびに、そのような思いに囚われる。学習能力の高いマルの場合は、村石さんの推測通り、レースという辛い記憶と結びつく馬運車がトラウマになっていたと想像できる。
「コロスケは練習馬でしたから、初心者が乗って手綱をガチャガチャやられたこともあって、ハミ受けが良くなかったんですよね。でも馬場馬術をさせると、首をグッと屈頭して、とても綺麗で評判が良かったんです。
マルもね、馬場馬術をさせたかったんですよ。でもコロスケの蹄葉炎が良くなったと思ったらまた再発して…というのを繰り返していましたから。マルは乗馬としての調教をまともに受けていないんです。マルは背中も柔らかかったですし、軽やかに駈歩もするんです。おじいちゃんと違って、ハミは嫌いではなかったですしね。
それに頭絡を持っていくと、自分から口を開いてハミを噛みに行くんです。ほとんどの馬は口に親指を入れないと開かないんですよね。それが自らハミを噛むわけですから、この子は良い調教をされているなと思いました。走ることに対しては抵抗があったかもしれませんけど、人間は大好きだったと思うんですよね、人懐っこかったですし。放牧地のそばに観光客がやってきても、近寄っていくのはマルの方でしたしね。
だからタイミングが来たら乗馬としての調教を受けさせようと思っていたのですけど、どうしても具合の悪いコロスケ優先になってしまってね」
と村石さんは少し残念そうだった。そして2012年2月にタイビスマルクにアクシデントが起こる。
「毎月1回実家のある東京に帰っているのですけど、2月15日に山梨に戻ってくると、放牧されていた小さなパドックでマルがクルクルクルクル回っているんです。近寄っていくと右目のあたりが真っ赤なんですよ。何故ケガをしたのか原因がわからないんです。切れそうな刃物状のものはないかと探してみたのですが、それも見当たりませんでした。
獣医に診察を受けて、傷口を縫ってもらいました。3か月ほど休ませて、少しずつ運動を進めていって、最終的にはまた乗れるようにはなりましたけどね。でも本当にかわいそうなことをしてしまいました」
失明のアクシデントに見舞われながらも、清里高原でコロスケとともにマルはのんびりと過ごしていた。しかし、昨年4月20日、穏やかな日々に終止符が打たれることになる。
「2013年の11月頃から、ゼーゼーと音を立てて苦しそうに息をするようになったんです。獣医さんは、気道に炎症があって、空気を吸い込む時に気道が狭くなって音が出るのではないかと…。薬も随分飲ませて一時は良くなったのですけど、昨年の3月にまた同じような症状が出てきました。
本当の原因を探るために内視鏡を持っている獣医さんに診てもらおうと手配をお願いしていたのですが、そうこうするうちに症状は段々悪化してきて、4月20日には掛かりつけの獣医さんに往診を依頼したんです。獣医さんが到着したのが夜8時近くで、その時に窒息状態で倒れて鼻血まで出してしまって、もうビックリしました。先生と相談して辛そうだから安楽死の処置を取った方が良いかと話をしていたのですが、処置をする間もなく、そのまま逝ってしまいました」
ここまで一気に話すと、村石さんは涙ぐんだ。
▲タイビスマルクの形見の健康手帳と元気な頃の写真
「でも不思議なんですよ。仲の良かったマルがいなくなって、コロスケは鳴きっぱなしになると思ったんです。でもコロスケは鳴きもせず、淡々と普通の生活をしてくれていたんです。それが私には救いでした」
動物は自らの死期を悟ると聞いたことがあるし、仲間同士、コミュニケーションを取っていると思われる。マルはコロスケに別れの挨拶をし、コロスケはマルの死をしっかり受け入れていた。そして2頭にとって大切なママを必要以上に悲しませないために、おじいちゃんは淡々と普段通りに生活していたのではないだろうか。私にはそう思えてならなかった。
タイビスマルクは、村石さんに看取られて22歳で天に召された。30歳のコロスケは、村石さんの愛情を受け、天国のマルに見守られながら、清里高原の地で今日も淡々と過ごしている。
競走馬としては無名の2頭だが、村石さんにとっては世界一の存在であるのは間違いない。(了)
(取材・文・写真:佐々木祥恵)
※小須田牧場
〒407-0301
山梨県北杜市高根町清里3545
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