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中谷雄太騎手(1)『美浦から栗東へ 騎手人生をかけた大勝負』

  • 2015年11月02日(月) 12時01分
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▲今月のゲストは中谷雄太騎手、栗東への移籍を決意した理由とは


2015年5月15日付けで美浦から栗東に所属変更した中谷雄太騎手。その1年半前の2013年11月から活動の拠点を栗東に移し、矢作芳人厩舎を中心に活動。その実績をベースに今回の完全移籍となりました。現在36歳。勝負の世界に食らいつき、自身の可能性にチャレンジする中谷騎手の心意気に迫ります。(取材:東奈緒美)


当時の僕は生意気でした


 今年の5月に栗東へ完全移籍。デビューが1998年ですから、18年目での大勝負ですね。

中谷 そうですね。ここで勝負をかけました。やっぱり、このままでは終われないという思いがあったので。栗東には一昨年の暮れから来るようになって。でもその時は、籍は美浦のままだったんです。その状態って中途半端だなと思って、決意しました。

 とても大きな決断ですから、そこに至るまでにはいろいろな事があったのかなと思うのですが?

中谷 まあ、そうですね。特に若い頃の自分に対しては、「お前、もうちょっとしっかりしろよ!」って言いたいです。若い時からちゃんと仕事と向き合って、騎手として何が大切かも分かっていたら、将来は違ったでしょうしね。

 ご両親が競馬関係とかではないんですよね? ご出身が東京ですもんね。

中谷 競馬とは全然関係ないですね。本当はプロ野球選手になりたかったんですけど、背が小さくて体格的に足りないと思って。10歳離れている兄がいて、一緒に競馬を見るようになって、ジョッキーが小さいのは知っていたんです。自分の小さい体を生かしたプロスポーツ選手になれるなって、目指したのはそこからですね。

 幼い頃から競馬を見る環境があったんですね。

中谷 でも、競馬場には1回も行ったことがなかったんですよ(笑)。テレビで見るばっかり。その頃豊さんが活躍されていて、「かっこいいなぁ」って憧れてました。まあ、乗馬は競馬学校に入るまでやったことなかったんですけどね。入ってからでもいいかなって。そういう環境にいる人の方が有利なんでしょうけど、体力面では自信があったので。

 初めて乗ってみて、怖さはなかったですか?

中谷 そういうのはなかったですね。小さい時から高いところは全然平気で、初めてまたがった時も「こんなもんか」って(笑)。余裕があるわけじゃなくて、馬をコントロールするのは難しかったんですけど、怖いというのはなかったです。

 無事にデビューを迎えて、1年目は4勝にとどまりましたが、2年目以降は10勝、12勝。減量もありますが、自信もついたんじゃないですか?

中谷 自信がついたと言うより、仕事に対して今より全然真剣じゃなかったかな。競馬に乗りたいのは乗りたかったんですけど、乗って成績を出すことしか考えてなかった。その頃の競馬に対する取り組み方や姿勢は、ちょっと違うんじゃないかって、当時の僕に言いたいです。それにちょっと、生意気でしたしね。

 そうだったんですか?

中谷 うん(苦笑)。まあまあ、若くて勢いもありますし、稼ぎも同年代と比べたら当然多いわけで。

 18歳でデビューして、びっくりするくらいのお金をいきなり手にするわけですもんね。

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▲東「18歳でデビューして、びっくりするくらいのお金を手にして」


中谷 だからって別に、めちゃくちゃ飲み歩いて使ってたというのではなかったですよ。ただ、天狗になってたのはあったのかな? そこまでたくさん勝ってたわけじゃないから、天狗とは違うか。でも、生意気だったんです。

 今考えると、そこで失敗したなっていう思いも?

中谷 正直、ありますよね。失敗したというか、その頃はそれでいいと思ってたので。本当だったら、減量があって勝ちやすい時にこそ、サークルの中での人間関係をしっかり作らなきゃいけなかったと思うんですけど。そういうところが欠如してたなっていうのはあるかな。

 人間関係次第で、うまくいくものもいかなくなってしまうことがありますもんね。

中谷 自分がこういう事を言ったら周りの人がどう思うかっていう、配慮も足りなかったかなと思います。本当はね、そういう人間関係の大切さは、うちの師匠が一番教えてくれていたところだったんですけど…

 高松邦男先生が(2009年引退)。どんな先生だったんですか?

中谷 昔ながらの厩舎だったので、師弟関係を大切にしてくれる先生でした。ある程度バックアップもしてもらえる環境にあったと思います。僕がいた当時、田面木(博公)さんと小野(次郎)さんの、2人の兄弟子がいて。なので本場ではなかなか乗せてもらえなかったですけど、ローカルは雄太、みたいな感じで乗せてもらっていました。

人間的にすごく暖かい先生で、成長させてもらったなって思います。人とのつながりの大切さはすごく勉強になった。7年間所属して、そういうことを教えてもらったはずなのに、どうしてその頃の僕は、それをもっと活かせなかったのかなって思いますね。

年間0勝のどん底も経験して


 そういうのが乗り鞍の数にも影響してきたなという実感も?

中谷 今となってはある。だけど当時は、「これでダメならダメでいいや」っていう気持ちでやってたと思うんです。だから自分を変えられなかったのはありますね。

 実際2007年には、年間勝利数が0に。

中谷 正直、騎手を辞めようと思いました。それでその頃、加藤征弘厩舎に所属したんです。それこそもう、征弘先生のところでお世話になって、このまま助手になろうっていう気持ちもあったと思います。

 それでも騎手でいようと思ったのは、どうしてだったんですか?

中谷 周りの人が助けてくれたからかな。征弘先生の厩舎を手伝っている時、自分で言うのもなんですが、一生懸命やってたんです。前向きな気持ちで仕事に向き合うと、馬についても勉強になることがいろいろと見えてきて。

征弘先生の厩舎でいい馬にたくさん触らせてもらったし、他の厩舎でもいい馬にまたがる機会があって。ゴスホークケン(当時斎藤誠厩舎)にも乗っていて、GIを勝たせてあげることができた。そういう馬たちに乗ってると、競馬でも自分が乗りたいなっていう思いが出てきたんですよね。

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▲中谷「いい馬たちの調教に乗ってると、競馬でも自分が乗りたいなって思うように」


 GI馬を作り上げたっていうのは、自信にもなったんじゃないですか?

中谷 それはでも、僕が作ったわけではないですからね。あの馬だったら誰が乗っててもGI馬になったと思うし、こうしたいっていうことに馬が応えてくれたわけで。そこは馬の力だと思うけど、導いてあげられたかなっていうのは、自信というか経験になったかな。

 人や馬との出会い、そういうきっかけで世界は開けるんですね。

中谷 本当にそうです。社台ファームの(吉田)照哉社長だったり、マイネルの(岡田)繁幸社長だったり、個人のオーナーさんだったり、名前を挙げればきりがないぐらい、たくさんの人に助けてもらいました。そういう機会を与えてもらえるっていうのが、大事だとも思いますしね。その頃からですね、自分自身がちょっとずつ変わっていったのは。(つづく)

東奈緒美 1983年1月2日生まれ、三重県出身。タレントとして関西圏を中心にテレビやCMで活躍中。グリーンチャンネル「トレセンリポート」のレギュラーリポーターを務めたことで、競馬に興味を抱き、また多くの競馬関係者との交流を深めている。

赤見千尋 1978年2月2日生まれ、群馬県出身。98年10月に公営高崎競馬の騎手としてデビュー。以来、高崎競馬廃止の05年1月まで騎乗を続けた。通算成績は2033戦91勝。引退後は、グリーンチャンネル「トレセンTIME」の美浦リポーターを担当したほか、KBS京都「競馬展望プラス」MC、秋田書店「プレイコミック」で連載した「優駿の門・ASUMI」の原作を手掛けるなど幅広く活躍。

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