この稿がアップされるのは2月27日。後藤浩輝騎手が世を去ってから1年になる。
まだ彼の不在に慣れ切っていない。競馬場で見かけないのは、今もリハビリ中か、海外遠征にでも行っているからのようにも感じられる。
――ジョークですよ。ビックリさせちゃってすいません。
と、ひょっこり顔を見せそうな気が、ずっとしている。
訃報を受けとってからしばらくは、さまざまな場所での、彼のいろいろな表情が脳裏に蘇ってきた。検量室でモニターを見上げる真剣な表情、本命馬で敗れて悔しそうにしている顔、入院先で競馬論を交わしたときの熱いものが感じられる目……などだ。
ところが、近ごろは、メガフォンでファンに語りかけているときや、勝って喜んでいるときなどの笑顔ばかりを思い出す。
突然の別れから1年。「後藤浩輝のいない競馬」が始まってから1年、と言うこともできる。
昨年、春のうちは彼のことを思い出さない日はなかったが、正直、夏を過ぎたころからは、ほかのことに忙殺されて、彼が旅立ってしまったことを忘れていた日もあった。そんな調子だったのに、思い出したときの彼は笑っている。
都合のいい解釈だが、
――そんなもんですよ。いつまでも悲しまれると、ぼくも困ります。
と彼が言っているように感じている。
時間が薬になった、ということだろうか。
彼がいなくなってから2年目の競馬が始まろうとしている。
後藤浩輝がいなくなってから2度目のクラシック、2度目の夏競馬、2度目のグランプリが、今年行われる。
そして来週、彼がいなくなってから2世代目の新人騎手がデビューする。JRAとしては16年ぶり7人目の女性騎手、初の親子3人騎手など話題が多い。
冷たい言い方をするようだが、後藤騎手がいなくなっても、競馬は行われる。ただ、彼が競馬を大好きだったという事実は、私たちの胸に確たるものとして残っている。その競馬をずっと見つづけていることも、彼の「不在感の薄さ」とでも言うべきものにつながっているのかもしれない。
『Number』誌に彼の「惜別録」を書いた、スポーツライターの阿部珠樹(たまき)さんが、2カ月後の4月22日、すい臓癌のため亡くなった。57歳だった。
阿部さんの死も突然だった。3月中旬の取材中、腹部に強烈な痛みを感じて入院してから、僅かひと月ほどで旅立ってしまった。
20年以上前からの知り合いで、『Number』のほか『優駿』『週刊競馬ブック』など、書く媒体や分野が重なっていたこともあって、入り方や構成など、ずっと意識していた存在だった。
私と7歳しか違わなかった。意識していた、というのは実はやわらかい表現で、一方的にライバル視していた、というのが正直なところだ。
キャプテントゥーレが勝った(私にとってはスマイルジャックが負けた)2008年の皐月賞が終わったばかりのとき、検量室前で、阿部さんと『Number』の編集者に会った。阿部さんは、久しぶりに馬券を買った編集者が、マークシートの塗り方さえ忘れていたのに3連単を的中させたことを冷やかしながら、サラリと言った。
「勝ったのが川田だから、若手騎手にスポットを当ててもいいかもね」
そのひと言で、『Number』の競馬特集の方向性が決まった。
2012年、相馬野馬追取材に行ったとき、雲雀ヶ原祭場地でも会った。その2年後、単行本『野馬追を生きる 南相馬を生きる』を上梓した。
そんな阿部さんが亡くなったのは、競馬メディアにとってかなり痛い。
20年ほど前のことだが、GIレースのあと、編集者やライター数名で食事をしたとき、人気を集めながら負けた馬の話になった。阿部さんは、「連勝できないね」とポツリ。
――そうか。今回の場合、連勝できる馬とできない馬との違いが、勝敗を分けるポイントになったと言えるな。
と、私は、自分にはない視点でレースと馬をとらえていた同業者の存在に危機感を覚えた。
これも『Number』だが、メジロマックイーンとトウカイテイオーの天下分け目の決戦となった1992年の天皇賞・春に関して、出場していた騎手全員に後日インタビューしてまとめた「江夏の21球競馬版」とでも言うべき読み物や、牝馬のダービー馬ヒサトモからトウカイテイオーにつながるノンフィクションなどは出色だった。また、95年春、アメリカに遠征したヒシアマゾンが脚部不安のため出走を見送ったさいのレポートも、スポーツを書いてみようと思っている若手ライターにはぜひ読んでもらいたい。ヒシアマゾンが回避したことによってテーマが消失したあと、どう書くのかと思っていたら、同馬を管理した中野隆良調教師(当時)がサングラスで無念の表情を隠して現れた描写から入り、読み手の意表をつく。そこから回避前の現地での評価、回避の受けとめられ方、アメリカ競馬の層の厚さ、頂点を目指す若駒たちの戦い……と話を進め、ヒシアマゾンが出るはずだったレースと同時期に行われたケンタッキーダービー前哨戦のリポートにまとめ上げている。一度は途方に暮れたに違いない編集者が、どれだけ救われたことか。
それらの記事がすぐ浮かんでくるぐらい私のなかに強く刻まれていたのだが、阿部さん本人に、「あの記事よかったですね」と言ったことは一度もなかった。先輩の文章を批評するのは失礼だから黙っていた、というのもあるが、同時に、それくらい意識していた、ということでもある。
残念な訃報がつづいた。昨年11月9日には、『週刊ギャロップ』初代編集長の芹澤邦雄さんが、くも膜下出血のため亡くなった。70歳だった。何人もの作家やライター、記者たちに自社媒体で書くきっかけを与え、書き手を支えながら、競馬メディア全体を活気づけた功労者だ。
今年2月18日には、講談師の神田陽司さんが肝硬変で死去した。53歳という若さだっただけに驚いた。一度しか会ったことがないのだが、そのとき迫力ある「競馬講談」を聞かせてもらった。何気ない雑談のなかで、「姉弟子(あねでし)」という言葉があることを教えられ、印象に残っている。
後藤騎手も阿部さんも芹澤さんも神田さんも、世を去ったことによって、生きてきた時間の区切りを示し、残したものの輪郭をより明確にした。
それに対し、自分のしていることが、どうもぼんやりしているように感じられるのは、私が生きているからだろう。これから先も何かをなす可能性があるからこそ、今がぼんやりしているように感じられるのだ、と、肯定的にとりたい。
区切りがついてから1年か。
後藤浩輝騎手の一周忌は、競馬をする。「する」じゃ弱いな。楽しむ。心底堪能する。それが私にとって、正しい過ごし方だと思う。