仙台空港にほど近い、宮城県名取市の乗馬クラブ「ベルシーサイドファーム」は、海岸からわずか200メートルのところに位置していた。防風林に囲まれたそこから海に出て、浜辺で外乗りを楽しむこともできる、美しい土地であった。
しかし、2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波により、すべてが破壊されてしまった。
地震が起きたとき、クラブには、41頭の馬と3匹の犬、代表の鈴木嘉憲さんを含むスタッフ5名と客3名、計8名の人間がいた。
建物を覆い尽くす高さの津波に襲われ、ベテラン厩舎長が行方不明になり、馬も犬も流されてしまった。
クラブと内陸を行き来するには貞山堀という水路を渡らなければならないのだが、橋が使えなかったため、鈴木さんがクラブの様子を見に行くことができたのは、震災から3日目の朝のことだった。途中、亡くなっている人もいたし、横たわって動かなくなった馬もたくさん見かけた。クラブは基礎しか残っていなかった。
瓦礫を撤去していた自衛隊員に、生きている馬を見かけなかったかと訊いてみると、「向こうで立っていたよ」と教えてくれた。
鈴木さんは夢中になって走った。クラブから数百メートル内陸に行ったところに、その一帯だけ砂浜になっているところがあった。
そこに1頭の馬が立ち、近くに生えた笹を食べていた。
元競走馬のアドマイヤチャンプ(当時セン14歳)である。
体中傷だらけで、塩水を飲んだため、鼻水を垂らしていた。運よく真水のタンクが転がっていたので中身を飲ませた。
まだ貞山堀に架かった橋をクルマで通ることができなかったので、その日は連れて帰ることができなかった。
震災の5日後、橋が開通したと連絡を受け、馬運車でチャンプを迎えに行った。すると、チャンプの隣に、もう1頭馬がいた。こちらも元競走馬のトニーザプリンス(当時セン20歳)だ。
クラブにいた41頭のうち、生き残ったのは、この2頭だけだった。
鈴木さんはそれから39日かけて、クラブにいたすべての馬を見つけ、それぞれのオーナーに報告した。
そして、すぐ、クラブを再建するための土地を探しはじめた。
「今は馬の命よりも人間が大事だろう」という声もあったなか、再建を急いだのには訳があった。
お盆までにクラブを再建し、亡くなった馬の魂が帰ってくることのできる場所を、なんとしてもつくりたい、と思っていたのだ。
50件ほど当たったところ、鈴木さんが探していた「仙台市内から40分圏内」という条件に合致するところがあった。
かくして震災から5カ月後の8月13日、秋保森林スポーツ公園内に「ベルステーブル」をオープンした。
それまでクレイン仙台泉や、叔父が蔵王で経営する乗馬クラブに預けていたアドマイチャンプも、ここに引き取った。トニーザプリンスは怪我がひどく、高齢でもあったので、そのまま叔父に預かってもらった。
再建されたクラブに来てからも、アドマイヤチャンプは普通にレッスンをこなした。図太い馬なので、水を怖がるような心の傷はなかったという。
それから約2年。まだまだ現役の乗馬としてやれそうだったのだが、これからは少しでも長くのんびりさせようと、2013年6月、繋養場所をホーストラスト北海道に移した。
岩内町のホーストラスト北海道でのんびり過ごすアドマイヤチャンプ。
ホーストラスト北海道の酒井政明代表によると、アドマイヤチャンプはおとなしい性格で、来たばかりのころはとけ込めずにいたが、やがて仲のいい馬たちができ、元気になったという。私がカメラを向けると寄ってきたりと、人と積極的に関わろうとするところもあるようだ。
鈴木さんは、毎年、チャンプに会うためホーストラスト北海道を訪ねるようになった。
「この馬が生きていてくれたおかげで、やらなきゃいけない、立ち上がろう、という気持ちになることができました。ぼくにとっては、生きていてくれるだけで支えになってくれる存在です」
真ん中がアドマイヤチャンプ、左が仲のいいウインギガシャトル、お尻を向けている芦毛はジャックモンティー。
未曾有の大災害となったあの日から5年が過ぎた。
いろいろな場所で、それぞれの形で、苦しい時間を生き抜いた人と馬がいる。
生きていること。その素晴らしさを、アドマイヤチャンプは、鈴木さんや酒井さんばかりでなく、私たちにも伝えてくれている。(次回へつづく)