▲1999年のフェブラリーSを制した地方の雄・メイセイオペラ 2頭の産駒の今を紹介(撮影:下野雄規)
「アウェーの場で大勢のお客さんにもひるまない姿がすごい」
地方馬初にして唯一、中央競馬のGI競走に優勝という偉業を成し遂げたメイセイオペラが、種牡馬として繋養されていた韓国で心不全により亡くなったのは、今年7月1日だった。岩手の名手、菅原勲騎手とのコンビで多くの人に愛された同馬の異国での死に、ショックを受けた方も多いだろう。
メイセイオペラの活躍、そして中央の馬たちを蹴散らしたフェブラリーSでの勝利は、今もファンの間では語り草となっており、現在、水沢競馬場にメイセイオペラの功績を讃える記念碑建立に向けて、井上オークスさんが中心となってポストカード販売やオークション、寄付金を募る活動が行われるなど、今なお同馬がファンや関係者にもたらす影響は大きい。
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→関連コラム『メイセイオペラの記念碑設立へ!井上オークスの奮闘』)
メイセイオペラが日本に残した産駒は6世代。そのうちのツルオカオウジ(セン9)とロマンテノール(セン13)の2頭が、茨城県かすみがうら市の霞ヶ浦ライディングファームで第二の馬生をのんびりと過ごしている。
▲茨城県かすみがうら市にある霞ヶ浦ライディングファーム
ツルオカオウジは、認定NPO法人引退馬協会のサポートのもとツルオカオウジの会が設立され、会員の支援のもと余生を送っている。会の代表の梶原晴美さんも、メイセイオペラに魅せられた1人だった。
梶原さんが競馬に出会ったのは1997年。仕事仲間の女性に「とにかく馬がきれいなのよ」と誘われたのがきっかけだった。初めて競馬場に足を踏み入れたのはその年の1月、東京競馬場だった。
「オレンジピールが勝ったクイーンCの日でした。聞いていた通り馬がすごくきれいで、ついでに馬券も的中しました(笑)。名前が可愛いからという理由だけで、オレンジピールを買ったら当たったんです(笑)」
以来その女性とともに、東京、中山開催中は毎週競馬場に通うようになった。
梶原さんが競馬と出会っておよそ2年が経過した1999年、フェブラリーSに岩手の雄メイセイオペラの参戦が決まった。
「フェブラリーSに岩手の強い馬が来るらしいということを初めて聞きました。それまでメイセイオペラもですけど、岩手競馬の存在自体を知らなくて。メイセイオペラと14歳で出走のミスタートウジンが見たくて、仕事のスケジュールを調整して競馬場に向かいました」
梶原さんは中央馬に交じって堂々とパドックを歩くメイセイオペラの格好良さに一目惚れした。
「栗毛がピカピカしていてきれいでしたし、タテガミの赤いボンボンも可愛くて印象的でした。何より、アウェーの場で大勢のお客さんにもひるまない姿がすごいと思いました」
一目惚れしたばかりのメイセイオペラが、目の前で中央の馬たちをねじ伏せトップでゴールに飛び込み、場内には勲コールが沸き起こった。梶原さんは、メイセイオペラに完璧にノックアウトされていた。
「その後は新聞や雑誌でメイセイオペラについて目を通し、それまでのことなどを知りました。ネットを覗くと、地元岩手のファンの方々の応援熱がすごかったですね。東京競馬場まで岩手の方が大勢応援に駆け付け、水沢競馬場のモニターの前でもたくさんの方が声援を送っていたようです。1頭の馬がこんなにも多くの人に夢を与えていることに、当時とても感動したのを覚えています」
フェブラリーS優勝後のメイセイオペラは、帝王賞や東京大賞典で大井競馬場に、2度目となるフェブラリーSで東京競馬場に遠征しているが、そのたびに梶原さんは競馬場に足を運んだ。
「岩手にはラストランとなった2000年8月のみちのく大賞典に駆け付けましたが、すごく強い勝ち方でした。11月に行われた引退式にも岩手に行きました」
メイセイオペラの産駒を引き取る決意
競走生活に別れを告げたメイセイオペラは、北海道静内町(現・新ひだか町)のレックススタッドで2001年から種牡馬生活をスタートさせる。初年度は83頭に種付けしたように人気も上々だったが、徐々に種付け頭数が減少していき、2005年、2006年ともに3頭と1桁となってしまった。そして2006年の種付けを最後に、韓国へと輸出されることに決まった。
レックススタッド時代は、梶原さんは年に1度、北海道に会いに訪れていた。2泊3日の行程だったが、滞在中は毎日スタッドに通い、見学時間の1時間の間、メイセイオペラのパドックに張り付いていた。
「競走馬時代とは違って、雄大な馬体になっていました。1時間はあっという間で、とても貴重でしたね。私が運転できないものですから、毎年秋に車が運転できる友人と一緒に牧場見学をしていたのですが、2006年は予定していた時期に出国前の検疫に入ってしまうために、その前に急遽1人で北海道に向かい、レンタサイクルで見学に通いました。最終日は雨で見学中止になってしまって2日しか行けず、もうこれきりになるかもしれないと半泣きでした。でも心の中では、絶対に韓国まで会いに行こうと誓っていました」
梶原さんは、韓国の済州島にあるプルン牧場に繋養されたメイセイオペラに、毎年会いに行った。
「韓国の競馬に詳しくてプルン牧場の場長さんとも親しい岩手競馬の記者の方にお願いして、先方にアポイントを取ってもらいました。言葉は通じないですけど、牧場の方にはとても親切にして頂きました。プルン牧場では結構、オレ様キャラでしたね」
ところが昨年は都合がつかずに結局韓国に渡れず、今年の秋、2年振りに会いに行く予定を立てていた。その矢先の7月、突然の訃報が韓国から届き、梶原さんのショックは大きかった。
けれども梶原さんには、メイセイオペラが残した馬たちがいる。前述したツルオカオウジとロマンテノールの2頭だ。
「一時期、メイセイオペラの子供を応援するホームページを作っていて、毎日出走予定や成績をチェックしたり、1頭1頭のプロフィールを詳しく調べていました。そのうちにその馬たちのお母さんにも会いたくなり、さらには生まれたばかりの当歳にも会ってみたいと思うようになって、その時期に牧場に行くようになりました。ツルオカオウジの生まれた中原牧場は、門別競馬場の目の前なんです。メイセイオペラ産駒の応援に門別競馬場に訪れた際に、牧場と連絡を取って当歳のツルオカオウジに会いに行きました。それがオウジとの最初の出会いです」
2007年生まれのツルオカオウジは、メイセイオペラが日本で種付けをした最後の年の産駒となる。
▲馬房の中のツルオカオウジ
もう1頭のロマンテノールは、メイセイオペラの2世代目の産駒で、2003年5月10日に青森県のマルシチ牧場で生まれた。母はグルームダンサーを父に持つクインダンサーという血統だ。
「ロマンテノールは、初勝利が5歳の1月と遅かったんです。やっと勝てたので厩舎にお祝いの人参を送ったら、調教師が電話を下さって、是非遊びに来てくださいと言って頂いたんです。厩舎で実際に会ったら、現役の競走馬なのにとても人懐っこくって、それで可愛くなってしまって…。その後は先生とメールで連絡を取り合って、勝ったらお祝いのメールや人参を送っていました」
しかし2011年5月31日のレースで勝利した後は、下位の着順が続いた。ロマンテノールをずっと見守り続けてきた梶原さんは、今後どうなるのか不安になり、12月21日に出走したロマンテノールを応援に浦和競馬場に足を運んだ。
「それまでと違っていい感じで走っていたんです。ところが4コーナーで騎手を振り落としてしまって競走中止だったのですけど、その時に見せた最後の脚が良かったんですよね。それで先生に『頑張りましたね』と電話をしました」
調教師は電話口で「今日が最後のつもりだったが、これならまだ行けそうだから、この先も使うことにした」と、梶原さんに伝えた。
まだ現役を続けさせると調教師は話してはいたものの、「今日が最後のつもりだった」という言葉を聞き、ロマンテノールの引退が現実のものとして梶原さんに迫ってきた。
「引退したらどうしようかなと考え始めました。経済的なことなど事情はあったのですけど、フリーランスで仕事をしていますので、仕事を増やせば何とかなるのかな、いや何とかしようという気持ちになりました。先生に引き取りたい旨を伝えて、馬主さんにも話を通して頂きました」
ロマンテノールは、落馬競走中止となった12月のレース以降、年が明けてからも現役を続けたが、5月30日の競馬を最後に競走馬生活にピリオドを打った。2005年に2歳で浦和競馬場でデビュー以来、9歳の2012年5月まで走って122戦9勝という成績を残した。
引き取りを決意して以来、預託先を探していたが、最終的には知人の紹介により、北海道白老町にある老舗の養老牧場、イートハーヴオーシァンファームにロマンテノールは落ち着いた。
▲ロマンテノールと梶原晴美さん
(次回へつづく)
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