▲赤い明正メンコがトレードマーク(撮影:森内智也)
マイナー血統の小さな馬が、地道に力を蓄え、やがて連勝街道を歩み始めた。そして名手・菅原勲を背に、東北3歳世代の頂点に立った。地元に敵なし。メイセイオペラは東北を飛び出して、より大きな舞台へ羽ばたくことになった。その矢先に……最悪のアクシデントに見舞われてしまう。(取材・文:井上オークス)※本企画は2月13日(月)〜17(金)、5日連続公開します。
(前回のつづき)
あの頃のオペラには戻れないのかもしれない
1997年9月23日、早朝。水沢競馬場の馬場で調教に精を出していた柴田洋行厩務員(当時)は、同僚から知らせを受けた。
「オペラが大変なことになった。早く厩舎に戻れ!」
まったく状況がつかめなかったが、あわてて佐々木修一厩舎へ向かう。するとメイセイオペラが、血まみれになっていた。洗い場に繋がれて、ガタガタ震えている。
朝一番に馬房を覗いたときは、なんの問題もなかったのに。大人しくて、とても扱いやすい馬なのに……。愛情を注いできた担当馬の痛ましい姿を見て、二十歳の若者は茫然と立ち尽くした。その日は仕事にならなかった。
メイセイオペラはこの朝、ユニコーンステークス(JRA・東京)に向けて1週前追い切りを予定していた。オペラが馬場に現れないことに首を傾げていた菅原勲騎手も、知らせを受けて佐々木厩舎に駆け付けた。そして血まみれのオペラを目の当たりにして、言葉を失った。
右目の周りが酷く腫れた。何日も鼻血が止まらず、飼い葉も食べなくなった。診断は「前頭骨の骨折」。馬房で体を横たえた状態から起き上がるとき、右目の上をどこかに強くぶつけたようだ。不可抗力の事故だった。
▲怪我の前と後の写真を並べると、右目の上の陥没がよくわかる(撮影:森内智也)
幸い、脚元は無事だった。一時は失明も危ぶまれたが、視力に影響がないことがわかった。