アブクマポーロとの激闘を経て、メキメキと力をつけてきたメイセイオペラ。明け5歳、心身ともに充実期を迎えていた。機は熟した。いざ東京競馬場。多くの試練を乗り越えた岩手の雄が、ファンの夢を乗せて、フェブラリーステークスに挑む。(取材・文:井上オークス)※本企画は2月13日(月)〜17(金)、5日連続公開します。
▲撮影:森内智也
(前回のつづき)
追い切りはダートコース、岩手の流儀で大舞台へ
フェブラリーSまで、あと1ヶ月。水沢競馬場が雪で埋め尽くされるその前に、メイセイオペラは再び、福島県のテンコー・トレーニングセンターへ向かった。坂路調教に加えて、ダートコースで8ハロン(1600m)の追い切りも行われた。これは佐々木修一調教師の意向で、異例のハード調教だったが、オペラはラストまでへこたれず、しっかり真面目に走り切った。
▲テンコー・トレーニングセンター
レースの10日前、メイセイオペラは柴田洋行厩務員と共に、茨城県の美浦トレーニングセンターへ入厩した。水沢はもちろん、これまで遠征してきたどの競馬場よりも、広大な施設。行き交う馬の頭数もケタ違い。しかしオペラは環境の変化に動じることなく、落ち着いていたという。
「修一先生と話し合って決めたのが、『自分たちのやりかたで、レースに向かおう』ということでした。『今までと違うこと、なにか特別なことをするのではなく、オペラに合った調教をしようよ』と」
だから追い切りは坂路でもウッドチップコースでもなく、あえて水沢と同じダートコースで行った。また、いつもオペラが飲んでいる岩手の水を、タンクに詰めて持ち込んだ。3歳時に大井のスーパーダートダービーへ遠征した際、現地の水を飲みたがらなくて苦労した経験から得たノウハウだった。
菅原勲騎手は最終追い切りの手綱を取って、オペラの状態をたしかめた。その合間に、目が回るほど取材を受けた。知人に「あんまり大きなことを言わないほうがいいよ」というアドバイスをもらったので、控え目なコメントに抑えたが、内心ではたしかな手応えを感じていた。
「この出来だったら、いい勝負ができるぞ」
1999年1月31日、フェブラリーS当日の東京競馬場