歓喜のフェブラリーS制覇以降も、夢は大きく膨らんでいった。ところが5歳の終わり、岩手の英雄に、ある異変が起きてしまう。菅原勲が語る、二度目のフェブラリーSの真実とは。そして月日は流れても、岩手の英雄をめぐる物語は終わっていない。夢のつづきを、見てみよう。(取材・文:井上オークス)※本企画は2月13日(月)〜17(金)の5日連続公開です。
▲(撮影:森内智也)
(前回のつづき)
ジョッキー人生で、一番の悔い
アブクマポーロが不在のレースを、負けるわけにはいかない。1999年6月24日、メイセイオペラは帝王賞(大井)に参戦した。結果は“持ったまま”の大楽勝。単勝1.6倍の1番人気に、きっちり応えてみせた。
▲4馬身差で帝王賞制覇(撮影:森内智也)
3つ目のGIタイトルを手にしたメイセイオペラに、ドバイ遠征のプランが浮上した。水沢から世界へ。夢のようなルートを、胸を張って選択できる地位にいた。準備というものを大切にする菅原勲騎手は先手を打って、3月のドバイワールドカップを現地観戦し、“視察”を済ませていた。
ところが――メイセイオペラは暮れの大井の東京大賞典を、大敗してしまう(11着)。1週前に大井へ入厩し、他に馬のいない出張馬房で過ごした孤独な時間が、影響したようだった。陣営はドバイ遠征を断念し、目標をフェブラリーS1本に絞った。
いつものようにテンコー・トレーニングセンターで一息入れて、レースの10日前に美浦へ入厩。前年と同じ過程だが、6歳になったオペラの様子は、まるで違っていた。飼い葉食いが落ちて、1週前追い切りは中止。最終追い切りの動きもピリッとしない。
2000年2月20日、東京競馬場。二度目のフェブラリーS。メディアは状態が前年に及ばないことを報じていた。しかしメイセイオペラは、3番人気に推された。連覇を祈るファンの想い。菅原騎手は「魅せる競馬をしよう」と決めて、レースに臨んだ。
ハイペースにひるまず、3番手でレースを進めたメイセイオペラは、直線半ばで早くも先頭に立った。そして懸命に粘ったが、ゴール寸前で交わされて4着。勝ったウイングアローとの着差は、わずか半馬身ほどだった。