▲元競走馬が誘導馬になるために必要なこととは
(前回のつづき)
1つの行程が抜けると"競走馬"に戻ってしまう
誘導馬の第一歩。それは坂口さんをはじめとする誘導馬に接する人たちが、馬にとって「安心できる、大丈夫だ」と理解してもらうことだ。
「ボンネビルレコードは、はじめは無口をつけておかないとなかなか捕まらない馬だったんです。今は頭絡を装着する時には、自分からスッとハミを噛むようになりましたよ。外に出るのが楽しくなっているのでしょうね。どの馬もそうなんですけど、頭の中をまず作らなければならないですね」(坂口昇さん)
競走馬時代は、全速力で走るという馬にとって苦しい行為をしなければならない。外に出るイコール苦しいと覚えてしまったためなのか、ボンネビルレコードは人が近寄ると逃げてしまい、無口をつけていないと捕まえるのが大変だったという。そんな馬たちの競走馬だった頭の中を変えていく。それが誘導馬への第一歩になるようだ。
「初めは脚(きゃく)を使う(脚で馬に合図をする)など乗馬的なことはしません。まずは人が乗って、ただただ歩かせます。慣れてきたところで愛撫をしてあげます。馬も緊張していますから、愛撫するとフーッと溜め息をつくんです。そうすると緊張がほぐれて体が柔らかくなるんですね。
そしてここを触ったらどうかな? ここを歩かせたらどうかななど、少しずつ調教していきます。最初は『嫌だ』と言うこともあります。そんな時は『そうか』と言いながらも、少し時間をおいてから、もう1回同じことをする。それを1、2日繰り返すうちに慣れてきますので、ヨシヨシと愛撫してやります。何せ怒らないでずっとヨシヨシです。乗馬的な調教を始めるまでには、1か月近くかかります。誘導馬厩舎に来て良かったねと馬に思わせるようにして、馬がリラックスしたところで、右の脚を使ったらどうかな? 左の脚を使ったらどうなるだろう? と少しずつブレーキング(騎乗馴致)をしていきます。
あとは後退ですね。1歩下がったら、前に出る。しばらくしたら今度は2歩下げるなど、徐々に1歩下げたり前に出したりしながら、馬の方にも納得してもらいます」(坂口さん)
▲ボンネビルレコードの練習風景
ボンネビルレコードも、前述通り、調教が進められていった。
「パワーがありますし、非常に気の強い、帝王みたいなヤツですからね(笑)。乗っていて脚を使うと、振り返ってこちらをギュッと睨みつけるんです。そんな時は大丈夫、大丈夫、ゴメンゴメン、何かしたかな? 僕…とか(笑)、ごまかしながら馴らしていって数週間ほどたったところで、今度は僕の方から少しずつ矯正をしていくという形ですね」(坂口さん)
乗るだけではなく、引き運動も重要だ。
「人が止まったら馬も止まる、人がゆっくり歩いたら馬もゆっくりと歩く。やっていくうちに馬が気遣いをして歩くようになります。これも1つの調教ですね。ボンネビルレコードの場合、最初は引っ張られたりもしましたけど、1、2か月くらいで大丈夫になりました。覚えが早いですね」(坂口さん)
元競走馬で、しかも大井競馬場で走っていた馬たちは、レース時にどうしてもテンションが上がってしまう。けれども、この環境が有利に働く点もある。それは大井競馬場が、浜松町から羽田空港を結ぶモノレールが目線の上に走り、羽田空港を離着陸する飛行機が空を頻繁に行き交う特殊な環境に由来する。
「アメリカから連れてきた馬たちにとっては、モノレールは大きなヘビ、飛行機は大きな鳥が飛んでいるようなものですけど、この競馬場を知っている馬たちにはこの風景に対する馴致がいらないんです。
あとは、競馬場内ですべてを馴致させてもらえるところが非常に良いですね。例えば開催中に、レースとレースの合間に本馬場に出させてもらったり、パドックをはじめいろいろな場所で馴致をすることができます。デビューまでに、誘導馬がやるべき行動を1つ1つ覚えさせられましたから」(坂口さん)
坂口さんの話を伺っている間、ボンネビルレコードは女性スタッフに曳かれ、ゆったりと歩いていた。大人しくはあるが、その瞳には力が宿っていた。「この人は大丈夫だと理解した人には、本当に悪さをしません」と、坂口さんは話をしていたが、その言葉通りの意志の強さと賢さを、その表情から感じた。
現在、大井競馬場の誘導馬は、ボンネビルレコード、ナイキスターゲイザ、クリールマグナム、セイントメモリーの4頭で、すべてが元競走馬だ。それまではアメリカから輸入してきたパロミノ種が誘導馬を務めていて、競走馬を誘導馬に調教した経験がなかったため、どのような手順を踏めば良いのかを手探りで1つ1つ進めていった。
誘導馬としての第二の馬生が始まったボンネビルレコードも、去勢をされ、手順を踏みながら調教が進められ、競走馬引退から約半年後の2013年6月26日、帝王賞の日に誘導馬デビューが決まった。
「ボンネビルはほとんどのことができたんですよ。ところがデビュー前日、競走馬がパドックを出ていく時に一緒に出ていくことと、開催日にパドックにある誘導馬待機場所に馬を入れるというその2点を経験させていなかったことに気づいたんです。それで前の日に競走馬の後ろから歩かせたら、完璧に競走馬に戻ってしまいました(笑)」(坂口さん)
その教訓を生かして、それ以降の誘導馬の馴致にはこの行程も組み込まれるようになった。
「1つ行程が抜けていると、さっき言ったように競走馬に戻ってしまいますから。雨が降っている時にバシャバシャという他の馬の脚音が後ろから聞こえると、誘導馬はものすごく驚いて、走ってしまうこともあるんですよね。そういうのも普段のトレーニングの中に入れ込んだり。ハローがけしているところを馴れさせるというのも普段の運動の中に入れて、すべてを覚えさせるようにしています」(坂口さん)
それでも馬は1頭1頭、性格が違う。馬と話し合いながら、その馬に合った方法で進めていく臨機応変さも必要となる。
「厩舎にいる時は、絶対に強く叩いて怒らない。怒るなとは言わないですけど、瞬時に怒るようにして、今なぜ怒られたのかをわかるようにします。だから馬がみんなおっとりして、おいでと言うとみんなこっちを向きますよ。この馬たちは使役馬ですから、競走馬や乗馬とは分けて考えていて、馬のストレスがたまらないように、いつも楽しくリラックスしているという状況を作るのが1番良いかなと思いますね。ボンネビルレコードも最初は無口を着けておかないと捕まえることができなかったですけど、そういう時に1番良いのは草を食べに連れていったりして、外に出るのは何てことないやと思わせるんですよね、楽しいことを必ずプラスするというのは大事です」(坂口さん)
▲「いつも楽しくリラックスしているという状況を作るのが1番良いかなと思います」
このようにしてボンネビルレコードの調教はほぼ順調に進み、自らも制した帝王賞というビッグレース当日に誘導馬デビューを果たした。前日のパドックの馴致では競走馬の記憶が甦ったようだったが、デビュー当日は問題なくこなした。
「帝王賞の前のレースでも、誘導馬として歩かせているんですよね。レースそのものに迷惑かけることは絶対にできないので、帝王賞で誘導させるかは大井競馬の職員の方々と話し合って決めましたが、ボンネビルレコードはうまく嵌ってくれました。雨の日で合羽を着せてでしたけど、本当にうまくいきました。セイントメモリーは昨年末の東京大賞典の日にデビューさせましたけど、そういう大きなレースの時にデビューした方がファンの印象にも残るのではないかなと思いますね」(坂口さん)
▲誘導馬デビューは、自身が07年に勝利した帝王賞(JpnI)の開催日
▲多くのファンが見守る中、堂々のデビューを果たした
中学時代から馬に乗ってきたという坂口さんだが、競走馬を引退した馬たちと信頼関係を築きながら、誘導馬に調教していくというこの仕事に、とてもやりがいを感じているという。
「僕が夜ちょっと飲んで戻ってきた時に馬たちに挨拶するんですけど、みんな『何飲んできたの?』って鼻をくっつけてきて匂いを嗅ぐんですよね(笑)。ボンネなんか、服に鼻水をつけてきますからね(笑)」
そう話す坂口さんの笑顔からは、ボンネビルレコードら誘導馬たちへの愛情の深さが伝わってきた。
「本当に良い馬ですし、お利口さんでパーフェクトな馬です」と坂口さんが絶賛するように、ボンネビルレコードの誘導ぶりにも磨きがかかっている。坂口さんやスタッフ、多くのファンに見守られながら誘導馬として歩むボンネビルレコードは、もはや大井競馬場にとってなくてはならない存在になっているということは間違いないだろう。
▲的場文男騎手を背に走った引退レース・2012年東京大賞典(撮影:高橋正和)
(了)
☆TCKからのお知らせ!今回コラムでご紹介したボンネビルレコードのほか、誘導馬たちの登場スケジュールは、開催中、TCKの
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※的場文男騎手(大井)をキャンペーンボーイとし、2016年4月から実施しておりました『トゥインクルレース30周年SP企画』は、当コラムで最終回となります。関連コラムおよび関連企画をご覧いただき、誠にありがとうございました。