▲10月1日に地元・高知競馬で「日韓2000勝」を達成した倉兼騎手
10月1日、凱旋門賞の約2時間前。地方・高知競馬12Rで日韓通算2000勝を決めた男がいた。高知所属の倉兼育康騎手(41)。韓国で期間限定免許を取り、2007年から韓国遠征をスタートした彼は、2014年には当地の最優秀騎手賞を受賞した。2016年夏以降は帰国し、騎手会長を務めながら高知競馬で腰を据えて騎乗している。先月、コリアスプリントとコリアCではJRA馬が優勝し、地方・大井競馬は定期的に韓国競馬と人馬の交流レースを行なっている。また、地方騎手にとって韓国は遠征先として定着している。身近な存在になりつつある韓国競馬で日本人騎手として道を切り拓いた倉兼騎手の異色の経歴に迫る。(取材・文・写真:大恵陽子)
ソウル競馬場の「倉兼ハウス」!?
倉兼騎手は少年時代、パラグアイで野球に汗を流した。ヤクルトスワローズの岡林洋一元選手を先輩に持つ野球少年が日本に来たのは中学3年生の頃。高知県内の学校に通っていた時、教頭から「身長が高くないし、騎手になったらどうだ」と勧められて競馬の道を歩み始めた。
「初めての帰国子女の騎手です」と話す倉兼騎手が韓国で騎乗するきっかけは、韓国馬事会から発せられた外国人騎手の募集告知だった。
「あの頃、交流レースで南関東などで乗せていただく機会がありました。でも、高知の馬で後ろの方を回ってくるだけで…どこか他地区で乗ってみたいなぁという思いが芽生えていました。そんな時に韓国で募集していることを知ったんです」 当時は他地区で騎乗するには地元馬と遠征するしかなかった。今でこそ売り上げが上がり、ディアマルコやカッサイ、タッチスプリントなど他地区に遠征しても互角に勝負できる高知の馬だが、当時は約6分の1の売り上げ。また騎手として移籍するにもクリアしなければいけない問題が色々とあった。
韓国に競馬があることすら知らなかったという倉兼騎手だが、知り合いを通じて韓国競馬に詳しい牛山基康氏を紹介してもらい、渡航の準備を進めていった。
そうして2007年7月。日本人としてはもとより、ソウル競馬場で初めての外国人騎手として騎乗をスタートさせた。隣国とはいえ、海を渡った先は言葉も馬文化も違った。
「競馬場側が通訳を用意してくれたんですが、韓国語・英語の通訳だったので、自分で英語・日本語の通訳を雇ったんです。けど、二段階通訳で全然指示が通りませんでした(苦笑)。調教も日本とは違って、馬場にどれだけの時間いたかっていうのを大切にするんです。僕は11分くらいしかいないんですが、地元の騎手は30分くらい軽いキャンターをしたり歩かせたりするんです。馬主から『週に何分乗ってくれ』っていう要求があってそれに合わせているんでしょうね」▲「韓国の調教は日本とは違って、馬場にどれだけの時間いたかっていうのを大切にするんです」
調教の内容だけでなくやり方も違った。
日本ではJRAでも地方競馬でも、多くの頭数に騎乗する騎手は調教が終われば馬場の出口などで馬を降り、待っていた次の馬に乗って再び馬場へ…ということは一般的なこと。しかし韓国では毎回、厩舎まで乗って帰っていたという。
「僕はいっぱい乗らないといけないから通訳さんに『馬場の近くまで馬を連れてきてもらって』と伝えてもらったんです。そうしたらリーディング上位騎手も真似をし始めて、今はソウル競馬場の馬場の入り口に待機所ができました」「倉兼ハウスですね」と讃えると、「そんなんじゃないよ」と照れたが、こうして倉兼騎手が韓国競馬に持ち込んだ物はソフト・ハード両面で多くあるだろう。
「当時の僕の口癖は『馬が走り方を知らない』だったんです。コーナーが逆手前とかの次元じゃなくて、韓国馬はフォームがバラッバラでした。また、今ではスタート直後のムチ禁止などルールがありますが、当時はみんな前のポジションを取ろうと外から叩きながら斜めに入ってきて危なかったんです。直線は長いけど前が有利だからなんですが、怖くて僕は後ろからしか行けませんでした。そしたら『追い込みのイク』ってあだ名がついたんです」