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週刊サラブレッド・レーシング・ポスト

  • 2005年05月10日(火) 11時11分
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 近年の勝ち馬で言えば、96年のカリズマティックも相当意外だったが、今年のジャコモはそれに輪をかけて、自分の「眼中にはない」馬だった。ましてや2着がクロージングアーギュメントでは、結果を事前に予測するのは、自分には「ほぼ不可能」。そんな、大ドンデン返しが起きたのが、5月7日にチャーチルダウンズで行われた第131回ケンタッキーダービーだった。

 まずそもそもの「ボタンの掛け違い」が、「今年の西海岸は水準が低い」という思い込みだった。昨年のBCジュヴェナイルで、直前のプレップG2ノーフォークSを制して1番人気に推されたローマンルーラーが5着に大敗したあたりから漂いはじめ、デクランズムーンが故障で戦線離脱したあたりから濃厚になりはじめた「西弱し」の風評は、最重要プレップレースG1サンタアニタダービーが、前走エルカミノリアルダービー3着のバザーズベイと、前走フォンテンオヴユースS・8着のジェネラルジョンビーの2頭による決着に終わった時点で決定的になった。

 今年の春先、カリフォルニア州が史上最悪とも言える大雨に祟られたことを、皆さんも御記憶だろう。その影響で、西海岸の各競馬場は馬場が極端に悪化。有力馬の故障も多かったし、故障しないまでも、「仕上げのスケジュールがめちゃくちゃに狂った。何とかしてくれ!!」という悲鳴が、ダービー戦線に乗せたい馬がいる厩舎のそこかしこから聞こえていたのである。

 だから今年の西海岸勢は弱いのだ、と、一見筋の通った理屈がまかり通って軽視されていたカリフォルニア調教馬たちだったのだが、よく考えてみれば、そこにはレトリックの罠が潜んでいることに気付かされる。天候が不順だったから、有力馬の仕上げが狂っていた。だからサンタアニタダービーが、とんでもない結果に終わった。ここまでの考え方は、よい。間違ったのは、ここから先だ。

 つまり、サンタアニターダービーをはじめとした西海岸のプレップレースで敗れた馬たちには、敗戦に至ったはっきりとした要因があったのであって、その結果から見限ってしまってはいけなかったのだ。調整が整い、本来の力を発揮できる状態に戻れば、結果は違ってくるはずと、考えなくてはならなかったのである。

 そうなると、昨年度のエクリプス賞2歳牡馬部門の受賞馬で、今季初戦のサンタカタリーナSも制してこの世代最強と目されていたデクランズムーンに、昨年12月のG1ハリウッドフューチュリティにおいて1馬身差の2着に食い下がっていたジャコモにもチャンスはあるはずと、このように理論の枝葉を伸ばせば良かったのだが、嗚呼、後の祭りである。

 ジャコモは、ジェローム・モス氏のケンタッキーにおけるオーナー・ブリーディング・ホース。モス氏はA&Mレーベルの創始者という音楽業界の大立者で、お気に入りの所属アーティスト「スティング」の息子さんジャック君のニックネームが「ジャコモ」なのだそうだ。ちなみにジャコモの母Set Them Freeは、スティングが85年に発表したアルバム「The Dream of the Blue Turtles(邦題ブルータートルの夢)」の一曲目に収められた「If you love somebody, set Them Free」に由来しているという。

 勝利騎手マイク・スミスは、これがケンタッキーダービー初制覇。実は、ジャコモの父Holy Bullが、94年のケンタッキーダービーで1番人気を裏切り12着と大敗した時、手綱を握っていたのもマイク・スミスだったのだ。父のリベンジを息子によって、11年振りに果した上でのダービー制覇。しかもスミスはこれまで、93年のプレイリーバイユー、02年のプラウドシティズン、04年のライオンハートと、ケンタッキーダービーの2着が3回もあっただけに、レース後は感激ひとしおの面持ちだった。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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