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砂漠の地で成就した日本競馬の悲願 ヴィクトワールピサ

  • 2018年03月16日(金) 13時00分
砂漠の地で成就した日本競馬の悲願 ヴィクトワールピサ

▲ netkeiba Books+ から「砂漠の地で成就した日本競馬の悲願 ヴィクトワールピサ」の1章をお届けいたします。(写真:2011年ドバイワールドカップ 写真:高橋正和)


 2011年早春。東日本全域を襲った巨大震災は多くの犠牲者を出し、各地に未曾有の被害をもたらした。そんな日本に砂漠の地から届けられた一通の吉報。「我、世界を制したり」。すべては祖国のために―――。ヴィクトワールピサのドバイWC制覇は、まさに“チームジャパン”が一体となってつかんだ奇跡の勝利だった。

(文:軍土門隼夫)



第1章 深夜に飛び込んできたビッグニュース


 今でも、まるで昨日のことのようにあの“悪夢の瞬間”が脳裏に蘇る。人や住宅、車を次々と飲み込んでいった巨大津波、倒壊した家屋、広範囲にわたり、町という町は壊滅的な被害に追い込まれた。その様子をとらえたテレビ映像は、とても現実の出来事とは思えないほどの惨状を映し出していた。

 2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とする大地震が東日本を襲った。かつて経験したことのない激しい揺れは、人々から日常を一瞬にして奪った。東北地方の海沿いでは、巨大な津波がすべてを押し流した。ライフラインは寸断され、ガソリンスタンドには燃料を求め、車が長蛇の列を成した。

 スーパーの食料品の棚がからっぽになり、電力不足への懸念から計画停電まで実施された、あの寒く、薄暗かった2011年の春。町中が、いや日本中が、それまで誰も経験したことのないような重苦しい空気に包まれていた。なにより、原子力発電所で起きた事故は、いまだに大きな影を落としている。

 「復興」という言葉がイメージさえできなかったあの時期、日本から遠く8000km離れた中東のドバイから、深夜にビッグニュースが飛び込んできた。

 「ヴィクト史上初ドバイWC制覇 歴史的ワンツー」
 
 「ドバイWCで日本馬初 ヴィクトワールピサV」

 競馬の世界一を決めるレースで、日本馬が初めて勝利したのだ。

 震災発生から約2週間が経った3月26日の土曜日、日本時間では日付が27日に変わった未明。UAEで行われたドバイワールドカップ(オールウェザー2000m)で、日本から遠征していたヴィクトワールピサが優勝した。2着も日本のトランセンドで、日本馬のワンツー・フィニッシュという結果だった。

 ドバイワールドカップは、1996年、UAEの首長であるシェイク・モハメドによって創設された。

 芝やダート、距離など、さまざまに異なったカテゴリーで覇を競う競馬というスポーツで真の「世界一」を決めることは不可能に近いが、そんななかで「賞金」は、最も説得力を持つ基準のひとつとなりうる。当時の世界最高額となる賞金が用意されたドバイワールドカップは、当初から明確にそういう目的を持って作られたレースというわけだった。

 ケンタッキーダービーやブリーダーズカップクラシックと同じダート2000m(創設当時、及び現在)という条件に設定されたこともあり、ドバイワールドカップにはアメリカの馬と地元UAEの馬を中心として、ヨーロッパ各国、オーストラリアや南アフリカ、そしてアジアなど、まさに世界中から強豪が集まった。

 日本馬は、第1回のライブリマウント(6着)を皮切りに15年で延べ17頭が挑戦していた。しかし、ここまでは2001年にトゥザヴィクトリーが2着に入ったのが最高で、勝利した馬はいなかった。それが、ついに初優勝を飾ったばかりか、日本馬で1、2着を独占してしまったのだ。

 ちなみに、それまで同一国の調教馬がワンツー・フィニッシュを飾ったことは、このレースで圧倒的に強いアメリカの馬が何度かあるだけだった。その後も地元UAEが1度、記録したのみ。まさに奇跡と呼んでいいレベルの快挙だった。

 テレビもラジオも新聞も、メディアというメディアが震災関連のもので埋め尽くされていたこの時期、明るいニュースなんてほとんどなかった。

 プロ野球もサッカーのJリーグも、そして競馬も、開催が延期されたり中止になったりした。電力不足への懸念や施設そのもののダメージもあったが、何より、そんなことをしている場合ではないという暗く切迫した空気がそこにはあった。

 日本中が、気持ちの逃げ場がないような状況に追い詰められているなかで届けられた、ヴィクトワールピサによるドバイワールドカップ制覇のニュース。それはまるで暗闇に射した一筋の光のように、僕たちの心を照らしたのだった。



(2章につづく)
日本の代表としてドバイへ

▲ netkeiba Books+ から「砂漠の地で成就した日本競馬の悲願 ヴィクトワールピサ」の1章、2章をお届けいたします。(写真:2010年有馬記念/下野雄規)


第2章 日本の代表としてドバイへ


 ヴィクトワールピサは2007年3月31日、北海道千歳市の社台ファームで生まれた。父ネオユニヴァース、母ホワイトウォーターアフェア(その父Machiavellian)。8歳上の半兄アサクサデンエンは安田記念を制している。

 市川義美氏が所有し、栗東の角居勝彦厩舎に預けられたヴィクトワールピサは、2歳の10月にデビューした。新馬戦は2着に敗れたが、このとき勝ったのはローズキングダム。2カ月後に朝日杯フューチュリティステークスを勝ってこの世代の2歳王者となり、3歳秋にはジャパンカップを制することになる馬だ。

 2戦目の未勝利戦を順当勝ちし、京都2歳ステークス、ラジオNIKKEI杯2歳ステークスと連勝したヴィクトワールピサは、3歳初戦の弥生賞も勝ってクラシック戦線の最有力馬に。そのままの勢いで1冠目の皐月賞を豪快に差し切り、2003年の春2冠馬である父ネオユニヴァースとの父子制覇を達成。堂々のG1ホースとなった。

2010年皐月賞


 続くダービーでエイシンフラッシュの3着に敗れたヴィクトワールピサは、その秋、菊花賞ではなくフランスの凱旋門賞に挑戦。3歳馬による凱旋門賞出走は、日本馬では史上初だった。

 8月に渡仏したヴィクトワールピサは、3歳馬同士の前哨戦であるニエル賞の4着(勝ち馬ベーカバド)を挟み、本番の凱旋門賞へ。英ダービー馬ワークフォースが、やはり日本から遠征していたナカヤマフェスタとの叩き合いを制して優勝するなか、7着でレースを終えた。

 帰国後、ジャパンカップで3着と健闘したヴィクトワールピサは、年末の有馬記念へ。ここで、ブエナビスタ以下を斥けて見事に勝利。2つ目のG1タイトルを獲得するとともに、名実ともに日本を代表する現役最強馬の1頭となった。

2010年有馬記念


 年が明けて4歳となったヴィクトワールピサは、ドバイワールドカップへの挑戦を見据えて中山記念に出走。貫録さえ感じさせる強さで勝利し、勇躍、ドバイへとやって来たのだった。

 ドバイワールドカップと同じ2000mの皐月賞を制しているヴィクトワールピサにとっては、距離が問題となることはもちろんなかった。未知なのは、芝ともダートとも異なる、オールウェザーという舞台だった。

 もともとドバイワールドカップは、ナドアルシバ競馬場のダート2000mで行われるレースとして始まった。しかし15年目を迎えた2010年、新たに建設されたメイダン競馬場に舞台を移すとともに、ダートに代わる新しい馬場として注目され、アメリカを中心に広まっていたオールウェザーが採用されることとなった。この年は、その2年目だった。

 ひと口にオールウェザーといってもさまざまな素材があるなか、メイダン競馬場には「タペタ」というブランドの人工素材が使用された。以降、5年間はこれで施行されたものの、2015年からは再びダートに戻されている。強烈な太陽光による劣化などが理由とされたが、いずれにせよ、この時点ではタペタへの適性は日本の芝馬、ダート馬に限らず、多くの国の有力馬にとって未知の要素となっていた。

 そんな挑戦の舞台へ向けて、ヴィクトワールピサは3月9日に日本を出発した。途中、香港で飛行機を乗り継ぎ、16時間にも及ぶ旅路を経てドバイに到着したのは3月10日になってからだった。

 日本をあの大震災が襲ったのは、その翌日のことだった。



(続きは 『netkeiba Books+』 で)
砂漠の地で成就した日本競馬の悲願 ヴィクトワールピサ
  1. 第1章 深夜に飛び込んできたビッグニュース
  2. 第2章 日本の代表としてドバイへ
  3. 第3章 団結する日本馬たち
  4. 第4章 まさかの出遅れ
  5. 第5章 奇跡のワンツー・フィニッシュ
  6. 第6章 8000kmの彼方へ届いた勇気
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