▲一度目は不合格、JRAの試験に落ちてからの苦悩の日々についても語ります
2015年に外国人として初めてJRAの通年免許を取得したミルコ・デムーロ騎手、初来日したのは20年前の1999年でした。スペシャルウィークのジャパンCを現地観戦し、その翌月には小倉で騎乗。それ以来、毎年欠かさず日本での騎乗を続けてきました。このインタビューは「ミルコ騎手と日本」の関係に改めて迫る企画です(全4回予定)。
外国人ジョッキーの日本参戦は、ミルコ騎手はまさに先駆者ですが、後に続くジョッキーたちが続々と登場。ルメール騎手も通年免許を取得し、以前のミルコ騎手と同じように、毎年短期免許で外国人ジョッキーが乗りにきて、多くの勝利を挙げています。立場が変わった今、彼らの活躍についてどう受け止めているのでしょうか?
(取材・文=不破由妃子)
不合格の時点で35歳、身の振り方に悩んだ日々
──通年免許試験の不合格という結果にものすごくショックを受けられたそうですが、翌年の再受験に向け、すぐに気持ちを切り替えられたのですか?
ミルコ いや、切り替えられませんでした。「こんなに一生懸命頑張ったのに、どうしてー!!!」ってなっちゃった(苦笑)。もうこれ以上は頑張れないと思ったから、次の試験を受けるのはやめておこうと思っていました。とはいえ、これからどうしよう…と本気で悩んで。
それまでにもいろんな国で乗っていましたが、クラシックシーズンはだいたい日本にきていたから、「いいときはまた日本に行ってる」と思われて、みんな僕のことをあまりよく思っていなかったし。
──それまで日本での騎乗を優先されてきたから余計に…。
ミルコ そう、だからショックだった。本当にあきらめようと思いました。その時点でもう35歳だったから、香港にしろアメリカにしろ、もう拠点を決めなければという気持ちもあったし。
でも、また日本の試験を受けるとなれば、そうはいきませんよね。日本でずっと乗りたいという気持ちは変わらなかったけど、どうしても「来年もまた落ちたら…」と考えてしまって。本当にイライラしてました。これじゃあ人生が決まらないなって。
▲「日本でずっと乗りたいけど、来年もまた落ちたらと考えてしまって…」
──そんな状況から、もう一度チャレンジしようと思えたのは、何が原動力になったのですか?
ミルコ それはやっぱり、周りの人たちが「あきらめないで」って言ってくれたから。すごくつらい思いをしたけど、あきらめないで本当によかった。でも、ダリオ(バルジュー)はあきらめてしまったね。一生懸命勉強していたし、彼は日本語もすごく上手だったのに…。
年齢も僕より2つ上だし、子供もすでに大きくなっていたから、いろいろ難しかったのかもしれません。かわいそうでしたね。