▲栗東・矢作厩舎所属の渋田康弘助手と担当馬のホウオウライジン (C)netkeiba.com
競馬はギャンブルかスポーツか、それは競馬の永遠のテーマ。しかし、主役の競走馬が生き物であるという点で、ほかのギャンブルとは一線を画します。
「馬が走りたくない時ってあるの?」
「ゲート、なんで出遅れるの?」
この企画は、現役騎手や厩舎関係者がファンの疑問に答えながら、愛すべき競走馬たちの素顔を語る短期集中連載です。
第4回はトップステーブル矢作厩舎所属の渋田康弘助手が登場。スーパーホーネットやグランプリボス、ディープブリランテらを送り出したキャリア40年を誇るホースマンが見てきた、レース以外で見せる競走馬の真の顔とは?
(取材・文=不破由妃子)
競走馬の真実(1)仕上げの過程で感じる難しさは“体重”
──今回は、「競走馬は生き物である」ということをテーマに、それを象徴するエピソードや現場の方だけが知る競走馬の真実を伺っているのですが、渋田さんは厩務員、持ち乗り調教助手(担当馬2頭に対し、調教と厩務員作業を併せて行う助手)、攻め専(調教を専門に行う助手)として、40年近く競走馬に携わってこられたそうですね。
渋田 はい。僕は、一回生と二回生しかない競馬学校の一回生で、鹿戸幸治先生の一番弟子です。初めて跨ったオープン馬はエンペラーエース(79年函館記念)。それまでは、オープン馬なんて自分なんかには乗れない代物だと思っていたので、考え方が変わったというか、忘れられない1頭です。
──エンペラーエースを皮切りに、ルイジアナピット(中村好夫厩舎)、メイショウドトウ(安田伊佐夫厩舎)などの調教に携わり、開業当時から籍を置く矢作芳人厩舎でも、攻め専としてスーパーホーネット、グランプリボス、ディープブリランテなどをレースに送り出してこられた。そんな渋田さんにとって、仕上げの過程で感じる生き物ならではの難しさとはどんなところですか?
渋田 お相撲さんと同じで、やっぱり食べないと力が付きません。だから、調教と同じくらい食べることも大事だと感じます。食べない馬は、競馬の前の最終的なきつい仕上げに入ったときに、肉体的にも精神的にも乗り越えていけない。
──食が細いということでいうと、スーパーホーネットはだいぶご苦労されたとか。
渋田 そうですね。3歳の春は本当に悩ましかった。
▲2005年くるみ賞(当時2歳)優勝時のスーパーホーネット (撮影:下野雄規)
──朝日杯フューチュリティS(2着)から、弥生賞(5着)、皐月賞(10着)、ダービー(15着)と、使うごとに減り続けたんですよね。
渋田 はい。皐月賞(前走比マイナス14キロの438キロ)がもう限界だと思っていました。実際、賛否両論が飛び交って、厩舎会議もあったんですよ。でも、開業翌年のクラシックシーズンであり、ダービーの優先出走権があったものだから、簡単にはあきらめられなかった。
もちろん最終的な判断を下すのはオーナーですから、そういった問題点もちゃんとお伝えして。本来ならば、450〜460キロで出走させるべき馬でしたが、ダービーでは皐月賞からさらに減って、432キロでの出走でしたね。
──結果は15着。この結果をどう受け止められたのですか?
渋田 先生は「馬には本当に申し訳ないことをした。俺の力不足だ」といって、ものすごく悔しがっていました。でも、「何事もチャレンジすることが大事。だから、これからもその気持ちを持ち続けて俺はやっていく」とおっしゃって。振り返ると、今の矢作厩舎があるのは、ホーネットのダービーがあったからじゃないかと思うんですよ。
──ホーネットの当時の食の細さというのは、やはり精神面からくるものだったんですか?
渋田 はい。繊細な馬で、入厩してからずっとイライラしていました。調教では引っ掛かるところもあって、いつも100%。頑張りすぎるから遊びがないんです。前進気勢が強い馬は、そういう性質を持っていることが多いですね。
ホーネットでいうと、3歳の夏を越してだいぶ変わってきましたが、とにかく自己主張が強い馬で。馬装ひとつをとっても大変でした。なにしろ暴れるので、担当者が「今日は鞍を置けない。だから調教できない」と言ってきたことが2、3回あったかな。立ち上がるのはもちろん、回し蹴りしてきたりとかね(苦笑)。
ホーネットは足癖も悪かったし、口も悪かった。不思議と僕は噛まれなかったんですが、厩舎スタッフのほとんどが、あの馬には噛まれていますね。みんな痣だらけでした。
競走馬の真実(2)馬から下りたら“わがまま”を聞いてあげる
──ヤンチャ坊主、ここに極まれりといった感じですね(苦笑)。
渋田 そうですね。僕は本来、のんびりした牛みたいな馬が好きなんですけど(笑)。
──牛みたいな馬といって思い浮かぶのは?
渋田 メイショウドトウが割とそういうタイプでしたね。入厩から約1年半、調教では僕しか乗ったことがなかった馬なんですが、牧場からはブレーキングが悪いという伝達があって。でも、実際に乗ってもまったくそういうイメージはなくて、いつもおとなしかった。
──500キロを超す大型馬で、レースでも前進気勢の強いイメージがありますが、渋田さんの前では安心してリラックスしていたのかもしれませんね。
渋田 そうかもしれません。調教では、ゲート練習にしろ追い切りにしろ、苦しいことや嫌なことをさせていますから、馬から下りたときは、ついわがままを全部聞いてしまいます(笑)。
──馬のわがままとは、具体的にどういうことですか?
渋田 けっこう面白いですよ。今は持ち乗り助手として担当馬を持っていますが、馬房では普通に顎で使われてます(笑)。「水桶を替えろ」とか「こっちに来い」とか「あれを持ってこい」とか。けっこう脅迫めいたわがままも多い(笑)。
▲(C)トマス中田 バディプロダクション所属
──面白いですね! 人を顎で使うなんて初めて聞きました。そういう要求はどういう仕草で伝えてくるんですか?
渋田 ん〜、いつも見ていれば動きでだいたいわかるのですが、その仕草を言葉で説明するのは難しいです。馬によってもアピールの仕方が全然違いますしね。今担当しているホウオウライジンという馬は、馬房の扉を開けたらいつでもウェルカムだし、ご飯を食べている途中で僕が帰ろうとしたら、5分くらいは引き留めてくる(笑)。
──それはたまりませんね(笑)。ちなみに、人間になついているかどうかが、レースでのパフォーマンスにも関わってくると思いますか?
渋田 いや、残念ながら、それはまったく関係ないと思っています。もちろん普段の扱いやすさやコンタクトの取りやすさは変わってきますけど、競走馬というのは、やはり馬場に出たらまったく別物だと僕は思っています。
▲服を噛んで遊ぶホウオウライジン、ちなみにこの取材をした週末に見事勝利しました! (C)netkeiba.com
競走馬の真実(3)レースに向けて“仕上がった”かの判断は?
──続いてのテーマですが、当然ながら、レース前には「仕上がり」に言及する厩舎サイドのコメントが数多く見受けられます。追い切りを消化するなかで、その馬が仕上がったかどうかというのはどういった点で判断されるのですか?
渋田 最終的には、獣医さんに心音を聞いてもらったりなどの確認もありますが、それ以前の段階として、まずは追い切ったあとの息の入り具合ですね。オープン馬は心肺機能も優れていますから、坂路を馬なりで52秒台程度なら、息は全然乱れません。でも、仕上がっていない場合は、さすがに息が荒いです。
いわゆる究極の仕上げになると、そこからさらにもう1回追って、終い11秒台で上がったりしますけど、それでも仕上がっていればフッと息が縦に抜ける感じで、ゼーゼーいうことはないですね。あとはやっぱり、ゴーサインを出したときの反応ですね。馬は頭がいいから、ハロン棒を全部わかっているんですよ。
──本当ですか? ということは、目安となるハロン棒に近づくと自ら加速する!?
渋田 自ら加速するというか、僕が長いこと乗っている馬などは、残り200mの標識あたりで「自分で行くから、もう叩かないで」と伝えてきます。それが手綱を通して伝わってきたら、僕も「じゃあ任せたよ」みたいな感じで。そういうコンタクトがちゃんと取れるときは、機嫌もいいですし、状態もすごくいい。もし、それを感じ取れない乗り手がいたとしたら、それは乗り手失格です。
▲(C)トマス中田 バディプロダクション所属
──渋田さんのキャリアのなせる業も当然あるでしょうが、まさに生き物対生き物の対話ですね。
渋田 僕は、馬へ敬意を払うことと尊厳を守ることを最優先に仕事をしています。やっぱり命あるもの同士ですから、頭ごなしの教育や躾はどうかという思いがあるので。
それより、自分という人間をわかってもらって、僕もその馬を理解する努力をして、一緒につらいことを乗り越えていってもらうというスタイルで馬には接してきました。ホースマンとしては失格かもしれませんが。
──それはなぜですか?
渋田 僕の考えは、教科書に載っている教えとは180度違うので。でも、自分の信念なので、どうしてもそこは譲れない。調教にしても何にしても頑なになることはないですし、あくまで馬の持ち味や個性を引き出して、気分よく走らせるのが自分のスタイルです。
──だから、馬房でのわがままも全部引き受けると。
渋田 そうですね。攻め専のときは、チーム全部の馬が担当馬という認識でしたが、持ち乗りをしている今は、担当馬2頭はまるで自分の子供ですよ。もうかわいくて仕方がない。競馬で走ってくれたら、自分のために走ってくれたんだなんて勘違いをして、泣いてしまうこともあります(笑)。
逆に、ケガをしたり、どこかに痛みが出てしまったときには、本当に申し訳ない気持ちになりますしね。なにしろ甘やかしているので、あまりいいスタッフではないかもしれませんが、これからも出会った馬と出会った人、すべてに感謝をしながら、日々の仕事に向き合っていきたいですね。
(次回が最終回。「同じ馬でも相手によって態度が変わるのか?」を三冠牝馬アパパネで検証。主戦の蛯名騎手、担当の福田助手が証言します!)
【イラスト作者プロフィール】
トマス中田
バディプロダクション所属
兵庫県姫路市出身/昭和生まれ