何とも不思議な人物が現れたものである。去る9月1日夜、A県在住のKと名乗る男から私宅へ電話がかかってきた。サマーセール(8月22~26日)に上場し、売れ残った1歳馬についての問い合わせだった。「あの馬は売れたか?」とKは切り出し、「売れてなければぜひ庭先で売って欲しい」という用件である。
実は、サマーセール終了後、私は当該馬を10月のオータムセールに再度上場すべく申し込みを済ませていた。しかし、ここで購買してもらえるのなら、価格次第では売ってしまおうと考えた。幾度かの価格交渉の後、サマーセールを大幅に下回る価格で私はKに買ってもらうことを承諾した。Kは「明日、静内で契約書を取り交わそう」と言い出し、場所と時間を打ち合わせた。
ここまではまったく普通の取引である。むしろ契約書のことを先方から切り出すほどだから良心的ですらある。私は何の疑いも持たず、翌日静内の指定された場所へと向かった。
待ち合わせ場所に現れたのは、Kともう一人の男性だった。この人は見覚えがあった。静内町内の牧場主T氏である。しかし、Kは初めて見る顔だった。年の頃は60代くらい。大柄で色白の男性である。交換した名刺には商社名と代表取締役の肩書、そしてK自身の名前が記されていた。聞けば、馬主歴は20数年に及び、かなりのキャリアのようである。
さっそく契約書が先方から提示され、それぞれが必要事項を記入し、無事に契約は成立した。その際、こんなやりとりがあった。「Kさん、私の生産馬に消費税を上乗せしていただけませんか?」と言う私に対し、それまで沈黙していたT氏が「田中さん、消費税は勘弁してくれよ」と苦々しそうに言い放ち、K氏に加勢したのだった。ところがKは、やや時間を置いてから、「まあ、いい。消費税くらいなら、上乗せしてやる」と物分りの良さそうな台詞を吐き、私を喜ばせてくれたのである。
以上のことから、私はT氏とKの間がかなり親密で取引歴も古いのだろう、と勝手に想像してしまった。その思い込みが後々にとんでもない事態を招くことになるのだが・・・。
契約書で確認したのは、馬代金の支払い日と当該馬の引渡し日である。普通、馬の売買は、代金を受け取ってから相手方に馬と血統書を渡すのが一般的だ。取引歴のある、よく知った相手ならば必ずしもこうした原則が守られないこともあるが、この場合のように、初めての相手と取引する時には、あくまで一般的なルールに則ってことを進める。代金決済日は9月20日。馬の引渡しは9月末日と取り決めた。
9月5日。A県のKより、大量の米が送られてきた。その量、実に40キログラム。ほどなく、K自身から電話があり、「お米が着いたか?」と確認されたのと同時に「他に売る馬はいないか?」と問われた。「います」と答えると、「じゃ、それも見せろ。また今週、北海道へ行くから」とKは電話口で言った。
すると、予告通りに、9月10日、KがT氏の運転する車で私宅を訪れた。もう1頭の馬(これもオータムセールに上場する予定である)を見せると、「買いたい」と言う。そして「2頭まとめて買うから売れ。両方とも美浦のS厩舎に入れるから」などと熱心に商談を持ちかけてきた。不思議なくらい、あっさりと馬を買う人物なのだな、と思ったのも事実である。焦っている印象さえあったほどだ。あまりにも簡単に馬を買うと言われるとかえって心配になってくるのが生産者の心理である。私は結局、もう1頭の方は商談に応じなかった。
そうこうしているうちに、代金決済日となった。しかし、約束の日が到来しても、指定した金融機関に馬代金が振り込まれて来ない。「おかしいな」と思っていた矢先、Kから言い訳の電話がかかってきた。「いろいろ事情があって、送金を一週間延期させて欲しい」という内容である。ここまで来ると結局生産者の立場としては、先方からの振込みを待つ以外に方法がない。「間違いないでしょうね」と念を押したが「いや。絶対間違いなく来週の26日には支払う。遅くとも、27日午前中には着く」とKは言い切るのだ。信用するしかなかった。
ところが、である。その前後からKに関する様々な噂が聞こえてくるようになってきた。どうやら、数年前から日高を中心にあちこちの牧場で同様の「架空取引」を持ちかけ、挙句の果てに代金を支払わないまま放置してしまう、という被害が出ていたらしいのである。
少なくとも今日現在で私が把握しているだけでも、被害牧場は約20軒に及ぶ。いずれの場合でも、「馬を買う」と取引を持ちかけ、そのままという手口である。昨年も、一昨年も、この人物に馬を売って、結局一円の代金ももらえなかったという話がたくさん聞こえて来た。いったい、では何のためにこんなことを繰り返すのか。それがどう考えても理解不能なのだ。まったくKには何一つメリットがない。それどころか、むしろ度重なる渡航費用や各牧場への贈答品など、かなりの出費がある。私の場合には前述のとおり「米40キロ」だったが、これは他の生産者も同様で、やはり契約書を交わし、取引をした(厳密には代金未納なので取引ではないのだが)相手方にもれなく米その他の贈り物をしているのである。
これを書いている27日夕刻現在、未だにKからの入金はない。おそらく、というか100%入金はない、と昨年までの多くの被害牧場はみんな口を揃えてこういう。「金なんてあるわけがない」と。
今の時点で書けるのはこれだけだが、今後被害はさらに広がることだろう。馬と血統書が生産者の手元に残るだけに、詐欺罪は成立しない、というのが地元警察の判断だが、取引を持ちかけられた生産者はその時点で他の顧客からの問い合わせに「売れました」と対応してきた。1歳セールの後である。「売る時期」を失くしたサラブレッドの辿る道はかなり厳しいものになる。売れたとばかり思っていた1歳馬が実は売れていなかった、ということになれば、その後の対応がかなり難しくなってしまう。やはり実害は大きいのである。この件に関しては次回もう一度、触れたい。