先日、テレビのドキュメンタリー番組を見ていたら、企業の営業マンが大学教授の研究室を訪ねるシーンがあった。教授は50代ぐらいで、ネクタイをしていた。彼に監修者として知恵を借りに来た営業マンは2人とも30代ぐらいだったが、ノーネクタイだった。その企業はかつてのヒット商品が売れなくなって会社全体の業績も苦しくなり、立て直しをはかっているとのことだったが、直すべきはそういう細かいところからではないか。教授と営業マンがどの程度親しい間柄かにもよるのだろうが、そのシーンが全国のお茶の間に流れてしまった事実は軽くない。
そんなことは社業の根幹には無関係だ、と開き直られたらそれまでだ。が、私はどんな分野でも、一事が万事として、そうした視点から人やグループを評価している。
例えば、テレビCMで、顧客が自社の社員に向かって深々と頭を下げるシーンを流していた企業があった。特に不快だったのは、大手通信会社と、大手ハウスメーカーのCMだ。通信会社のCMは、電話を通じて顧客が頭を下げるものだったが、会社の人間もチェックしたはずなのに、そのままオンエアさせる神経が私にはわからない。
のっけからネガティブな話になって申し訳ないが、要は、繰り返しになるが、一事が万事で、人間や企業などのグループの優れたところやまずいところは、必ず細かいところに出てくる。だから、細かなところがしっかりしている人や企業は成功するし、その逆もしかり、というわけだ。
さて、競馬というものは、どのようにして世の中に受け入れられているのか。
それを知るには、視点を逆にして、競馬はどのようにして、世間一般に入口をひらいているのか、と考えるといいかもしれない。
主催者は、テレビやラジオ、新聞、雑誌などの広告で、競馬の存在を広く知らしめることを、継続的に行っている。
その延長線上のような形で、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などの各メディアが、競馬にまつわる物語を掘り下げて紹介するなどしており、私は主にそこに関わっている。
誰かに頼まれて始めたわけではなく、競馬が好きになったから、その魅力を、そこにある物語を通じて伝えようとするようになった。
競馬がいかに素晴らしいものか。それを伝えているうちに、競馬を知っていること、競馬を見つづけていることを誇らしく思うようになった。そして、物語と一緒に、その気持ちを伝えたくなった。と、いろいろ書いたが、言ってみれば、美味しい店を見つけたら、友人に教えたくなるのと同じような気持ちだ。
そこに以前は強くあったのが、「あの人もやっている競馬」という部分だ。
作家の伊集院静さん、矢作俊彦さん、俳優の小林薫さん、奥田瑛二さん、故・南田洋子さん、歌手の阿川泰子さん、映画監督の故・森田芳光さん……といった人たちも楽しんでいる大人の遊び。それが競馬だった。
残念ながら、亡くなった人を除いても、ここに記した人たちが、競馬場に定期的に来ることはなくなってしまった。
「あのかっこいい人、素敵な人もやっている競馬」として、胸を張ることができなくなったのは、やはり寂しい。
その逆、「あいつもやっている競馬」という意味で、競馬を安っぽく感じさせている連中ならいくらでも思いつくのもまた、悲しいというか、虚しい。 些細なことと思われるかもしれないが、何度も繰り返しているように、一事が万事。イメージというのは細かなことの集合体である。
もし、すでにやっていたら申し訳ないのだが、主催者は、上記の人たちを含む「競馬好きの有名人」に、特にイベントなどがなくても競馬場への招待状を送るなど、何らかの働きかけをしてはどうか。やっていなかったとしたら、担当者を決めて、リストづくりから始めればいいと思う。
主催者が、発信力のある著名人に働きかけるのは恣意的なことだが、そうして競馬を見た著名人が、日常のこととして競馬について連載エッセイに書いたり、テレビ番組で口にしたりする自然発生的な発信の蓄積というのは、ものすごく大きな力を持つ。
故・野平祐二元騎手・調教師が自宅でつづけていた「野平サロン」の発想である。
書きながら、あらためて「祐ちゃん先生」の偉大さを思い知らされ、「あの人がいた競馬界」は素晴らしかったとつくづく思う。
とりとめのない話になってしまったが、「あの人」と呼べる人が、世の中からいなくなったわけではない。