既報のように、騎手時代、「剛腕・郷原」と呼ばれた郷原洋行さんが、1月31日に亡くなった。76歳だった。
実は、私が初めて馬券を買ったレースは、1987年、郷原さんが騎乗したニッポーテイオーが制した天皇賞・秋だった。
ニッポーテイオーは、内目の3枠4番から速いスタートを切った。そして、並走していたレジェンドテイオーより少しずつ前に出て、単騎逃げの形に持ち込んだ。ニッポーテイオーが無理に行ったのではなく、レジェンドテイオーが控えた格好だった。
ニッポーテイオーは、引っ張り気味の手応えで直線へ。ラスト400m地点を通過したところで郷原さんが右ステッキでゴーサインを出した。そこから見る見る後ろを引き離し、2着のレジェンドテイオーに5馬身差をつけてフィニッシュ。これが同馬にとって初のGIタイトルとなった。
アヒルの子が初めて見たものを親だと思うように、私は、「スタートからほどなく先頭に立つ」という戦術は非常に有効で、さらに、馬名に「テイオー」と付く馬は強い──というイメージを抱くようになった。
当時の私は、序盤から先頭に立つことを「逃げる」と言うことを、競馬新聞の馬柱に記された略語などで知っていたと思う。しかし、逃げる理由の多くが、先制攻撃という肯定的な意味合いより、他馬を怖がるとか、キックバックを嫌がるといったマイナスのものが多いと知ったのは、もう少し経ってからだと思う。
馬券を買う前から、郷原さんが「剛腕」と呼ばれていたことは知っていた。が、直線で抜け出したときに勝利を確信したのだろう、郷原さんは右の見せ鞭を主に使い、ニッポーテイオーが気を抜かない程度に逆鞭を入れただけだった。
なので、私は、「騎手・郷原洋行」は激しいアクションで馬を追う、という印象をほとんど持つことなく、競馬を見つづけることになった。それから10年ほど経ってから、「元祖天才」と呼ばれた田原成貴さんが「郷原さんほどやわらかく乗れる人はいないよ」と話すのを聞き、道中、馬の余力を多く残す技術があるからこそ、最後の直線で馬が豪快に動き、鞍上のアクションもダイナミックに見えるということを再認識した。そう、郷原さんは、しなやかな「剛腕」だったのだ。
さて、その天皇賞・秋を「親」とした私のなかで、「強い人馬」のイメージは、当然のように「郷原洋行・ニッポーテイオー」を原形として形づくられた。
ニッポーテイオーは、鹿毛の牡馬で、当時旧5歳。父リイフォー、母チヨダマサコ。名門・千代田牧場の生産。管理者は、戦時中の1944年に能力検定競走として行われた日本ダービーを制したカイソウ、天皇賞馬ミハルオー、トラツクオー、キタノオーなど数々の名馬を育てた伯楽として知られる久保田金造調教師(当時)。鹿戸雄一調教師が最後の弟子である。
リイフォーは大種牡馬リファールの産駒で、1975年に生まれ、1979年に日本に輸入された。しかし、アイルランドに残したトロメオ、ロイヤルヒロインといった産駒がアメリカのGIを勝つなど活躍したため、1983年にアメリカへ輸出された。それゆえ、日本に残された産駒は、ニッポーテイオーの世代を含む3世代だけとなった。
チヨダマサコは、2番仔のニッポーテイオーの翌年誕生した3番仔タレンティドガールが、前述の天皇賞・秋の2週後に行われたエリザベス女王杯を勝つなど、名牝と呼ぶにふさわしい繁殖成績を残している。
その天皇賞・秋が行われた当時、郷原さんはデビュー26年目の43歳。デビュー6年目の1967年、リユウズキで皐月賞を勝ってクラシック初制覇。1975年にはイチフジイサミで天皇賞・春、1977年にはプレストウコウで菊花賞、1979年にはカシュウチカラで天皇賞・春、スリージャイアンツで天皇賞・秋、1980年にはオペックホースで日本ダービーを制するなどし、春秋の天皇賞を制した1979年には全国リーディングジョッキーの座についていた。
名門で生まれた良血馬が、伯楽に育てられ、名騎手を背に名馬となった。張りのある馬体といい、厳しい表情ながら自信に満ちあふれた鞍上といい、見るからに強そうで、そして実際、強かった。
その天皇賞・秋の翌日23歳になった私は、翌月、12月6日に阪神芝2500mで行われた鳴尾記念を6馬身差で圧勝したタマモクロスに惚れ込んでしまう。
タマモクロスは芦毛の牡馬で、当時旧4歳。父は「白い稲妻」シービークロス、母はグリーンシャトー。故郷の錦野牧場は同年11月に倒産。管理したのは小原伊佐美調教師(当時、以下同)。小原師は、重賞初制覇もGI初制覇もタマモクロスによって達成していく。
そして鞍上は南井克巳騎手(当時、以下同)。デビュー17年目の34歳。重賞勝ちはあったが、GIは未勝利だった。南井騎手もまた、タマモクロスによって初GIの栄冠を手にすることになる。
タマモクロスは、一戦ごとに全力を出し切ってしまうからか、カイ食いが細く、馬体を維持するのに苦労する馬だった。
新馬戦の456kgが最高馬体重で、見た目はさほど強そうではなかった。にもかかわらず、直線で前が何度詰まっても勝負を捨てず、首を低くする独特のフォームでゴールを目指す姿がたまらなかった。
1988年6月12日、前走の天皇賞・春でGI初制覇を果たした南井克巳・タマモクロスと、同年の安田記念を完勝した郷原洋行・ニッポーテイオーが、宝塚記念で初めて対決することになった。
1番人気は、前年の天皇賞・秋の内容から距離延長に不安はないと目されたニッポーテイオー、2番人気はタマモクロス。逃げてもよし、好位からでもよしという「横綱相撲」ができたニッポーテイオーに対し、後方からの競馬がつづいていたタマモクロスは安定味に欠けると見られたのか。
中距離の絶対王者と長距離の新王者が間を取って初めて激突するという、アドレナリンが大量に分泌された世紀の対決を制したのは、タマモクロスだった。相手が強大だったからこそ、「タマモクロス派」の得た充足感は大きかった。
ニッポーテイオーは、その一戦を最後に現役を退き、種牡馬となった。もっとも知名度の高い産駒は「最弱のアイドル」ハルウララか。
郷原さんは、1989年にウィナーズサークルでダービー2勝目を挙げた。そして、49歳になった1993年に鞭を置いた。
強くて、しなやかで、カッコいいジョッキーだった。