▲石坂調教師の最初で最後のロングインタビュー (C)netkeiba.com
今月末で調教師人生に幕を下ろす石坂正調教師。ダート王ヴァーミリアン、牝馬三冠馬ジェンティルドンナを筆頭に、ダイタクヤマト、アロンダイト、アストンマーチャン、ブルーメンブラット、ベストウォーリア、モーニン、シンハライトなど、時代を彩ったGI馬を次々と輩出してきました。
その一方、メディアにはあまり出ないことでも有名。それも相まってか、“怖い先生”というイメージも!? 今回、引退直前に貴重な機会をいただき、最初で最後のロングインタビューにお答えいただきました。石坂調教師の胸の内に深く迫ります。
(取材・構成=不破由妃子)
※このインタビューは電話取材で行いました。
調教師試験合格までに12年も掛かってしまいました
──23年間、たくさんの感動をありがとうございました。
石坂 こちらこそ、ありがとうございました。
──引退を約10日後(取材時点)に控えた今、どんなお気持ちで日々を過ごしていらっしゃいますか?
石坂 カウントダウンが始まったなという感じですね。片付けに追われていますが、その作業のなかで、(引退の日が近いことを)実感する日々です。
──1979年に内藤繁春厩舎の厩務員になられてから、42年間に及ぶホースマン人生でした。まずは、先生と馬との出会いから教えていただけますか?
石坂 大学の入学に合わせて佐賀から京都に出てきた頃、テレビで競馬を観たのが初めてでした。ニホンピロムーテーなどが活躍していた時代でね。しばらく京都でアルバイトをして、そのあと牧場で働いたんですけど、そこはすぐに辞めてしまったんです。
──それはなぜですか?
石坂 夏場だったのですが、粉状になった牧草が体について、体中が痒くなってしまって。昔は馬房の二階に牧草が積んであって、それを機械で切るわけです。そうしたら、細かくなった牧草が埃のように舞うんですよね。それが体について、もう痒くて痒くて。辛抱できなくなって、一旦逃げ帰りました。
でも、たぶん2年ほどして、もう一度牧場で働きたくなって、内藤先生がやっておられた優駿牧場に就職したんです。確か冬場で、そこでは牧草作業もありませんでしたね。優駿牧場で半年ほど働いたのち、内藤厩舎の厩務員になり、約3年間、いろいろ勉強させていただきました。
──その後、1982年に開業した橋口弘次郎厩舎に移られて。
石坂 はい。開業時から約15年間、お世話になりました。常に勝つことを目標にやっておられた先生でしたから、その先生の考え方というのが自然と私にも植え付けられた感じです。開業当初に活躍したセントシーザー、11番人気で天皇賞・秋を勝ったレッツゴーターキン、あとはやっぱりダンスインザダーク…。思い出深い馬がたくさんいますね。
──調教師としての23年間でいろいろなタイプのスタッフと接してこられたと思いますが、先生ご自身はどんなタイプの調教助手だったのですか?
石坂 私ですか? そんなこと考えたこともなかったな(苦笑)。そうですねぇ、サラリーマンタイプの調教助手だったんじゃないですかね。朝はちゃんと行っていたし、調教師の指示には従っていたし。真面目な助手だったと思いますよ。ただね、馬乗りは下手でした。
──ご自分でわかっていらっしゃったんですね。
石坂 はい。そのぶん、上手くなりたいという気持ちは常に持っていたし、橋口先生も大事な追い切りには乗せてくれましたから、最初の頃に比べたら、少しは馬乗りの技術も上達したのかもしれませんね。
──調教師試験に合格されたのが1997年。実に12回目のチャレンジだったそうですね。
石坂 調教師になることが目標ではなかったんです。
──そうなんですか? それはちょっと意外です。調教師として信念を貫かれた印象があるので、てっきり当時からはっきりした理想像を持って目指していらしたのかと思っていました。
石坂 いえ、そういうのは全然ありませんでした。橋口先生から「石坂くんも受けてみないか?」と勧めていただいたので、じゃあやってみようかとなったまでです。だから、試験を受け始めた当初は、必死に取り組んだとはいえない感じで。だから12年も掛かってしまったんでしょうね。
──それでもチャレンジを続けられたのは、どんな思いからですか?
石坂 何年も受け続けているということは、それだけいろいろなものを犠牲にしているわけなんですよ。たとえば遊びたいとか、家族旅行に行きたいとか思ってもね、我慢をしてきたわけです。そこまでして頑張ってきたんだから、絶対に受からなアカン。途中からは、その一心でした。もう意地ですよね。当時は試験に受かることが目標であって、調教師になって何をしたいとか、全然考えていませんでしたね。
──ということは、ビジョンを含めての先生の調教師人生は、開業と同時に本当にゼロからスタートしたんですね。
石坂 そうですね。試験に受かったときは、新聞社の方から目標とかいろいろ聞かれましてね。そのときは、「ダービーを勝ちたい」とか「海外のレースを目指したい」とか一応答えましたけど、それは口先だけのものでした。
──先生、ぶっちゃけますね(笑)。とはいえ、そこから競馬史に残る数多くの名馬を輩出されたわけです。改めて、内藤先生と橋口先生には、どんな思いがありますか?
石坂 内藤先生とのご縁がなかったら、そもそも競馬場にきていませんし、橋口厩舎でお世話になっていなかったら、調教師にはなっていなかったと思います。だから、私の人生におふたりがいなかったら、私は調教師にはなれなかった。ものすごく恩を感じています。
最低人気での勝利「まぐれでGIは勝てないんです」
──開業初年度は11勝。2年目は12勝、3年目は17勝と、着々と勝ち星を伸ばしていきましたね。
石坂 これといった目標を持たないまま開業しましたが、橋口厩舎にいた頃は勝つことをすごく意識させられる環境にいましたので、馬がひとつ勝ってくれるごとに一生懸命になりました。結果が出ると、同時に欲も出るというかね。
──ひとつ勝つごとに、今につながる「石坂厩舎」が出来上がっていったんですね。
石坂 本当にそういう感じでした。ただひとつ、馬を壊さないという信念だけは、最初から持っていました。競走馬は経済動物ですが、マシンではありません。今ももちろんそう思っていますし、その気持ちだけは開業当初からありましたね。
──3年目にはダイタクヤマトでスプリンターズSを制覇。シンガリ人気(16番人気)での勝利とあって、本当に衝撃でした。今でもあのゴールシーンを思い出すことができます。
▲シンガリ人気での大金星、鞍上は江田照男騎手 (撮影:下野雄規)
石坂 確かに最低人気ではありましたが、自分としては、いい競馬ができるはずだと思って送り出したんです。さすがに勝てるとまでは思っていませんでしたけどね。私はね、当時から今に至るまで、勝算もないのに競馬に使ったことはありません。もちろん結果はさまざまでしたが、自分のなかでは常に「勝てる」「上位を狙える」と思う体調と条件で使ってきましたから。自分で絶対に走らないと思った馬を使うことは、ほとんどなかったです。
──サラッとすごいことをおっしゃいますね。ということは、ダイタクヤマトの激走も、先生にとってはそれほど衝撃ではなかった?
石坂 いや、勝ったことは、まぐれやろうなと思いましたよ(笑)。でも、スプリンターズSのあとに使ったスワンSを勝ったときに「これは本物だ」と思いましたね。今ならわかりますが、やはりまぐれでGIは勝てないんですよね。
──ダイタクヤマトのあの勝利が厩舎にもたらしたものは大きかったのではないですか?
石坂 そうですね、転機になったと思います。あの年を境に勝ち星がグンと上がったんです。ヤマトのスプリンターズSが3年目で、その年は17勝。その次の年から30くらい勝ち始めましたからね。
──そこから昨年までの20年間、ずっと勝ち星のラインをキープされて。すごいことだと思います。
石坂 ホントに馬がね、頑張って走ってくれました。馬主さんのご理解と、従業員全員が勝利に向かって仕事をしてくれた結果だと思います。それが石坂厩舎の強味でもありました。
──スタッフの士気を高めるために、意識されてきたことはありますか?
石坂 従業員が意欲を持てる馬を厩舎に持ってくる。自分の仕事として、それは常に思っていました。実際、そういう馬がきてくれましたね。それはひとえに、馬主さんの理解の上に叶ったことです。私は生意気な調教師でしたからね。今、私のようなやり方をしていたら、いい馬なんて入ってこないと思いますよ。
──具体的に、どんな“生意気”を発揮してこられたのですか?
石坂 馬について思ったことは、馬主さんや牧場に全部言いました。かなりきついことも言ったと思います。今、振り返ると、よく馬主さんが馬を引き上げなかったなぁと思う出来事もあります。ただ、私が言ってきたことは正論です。それは今でもそう思っています。
──そういうスタンスを貫くことに、怖さはなかったんですか?
石坂 ないですね。47歳で開業したんですが、気持ち的にはまったくの新人でしたから、納得できないのに我慢をするということはできませんでした。馬を引き上げようと思った馬主さんもいたと思いますし、実際に引き上げた馬主さんもいらっしゃいます。でもね、そういうことがあっても、馬が走ってくれるんです。だからこそ、今までやってこられたんだと思っています。
(文中敬称略、明日25日公開の次回へつづく)