馬生を全うした2頭への感謝と言いようのない喪失感
先月末から今月初めにかけて、馬の死亡が2頭続いた。いずれも、私の牧場でお預かりするようになってから10年以上にもなる高齢の馬である。
1頭はせん馬。名前をボヘミアンカバリエという。1995年生まれなので、年明けに26歳になっていた。父はワカオライデン。生産は浦河の(有)日東牧場である。
大人しい性格だったボヘミアンカバリエ(栗毛、撮影:2012年10月)
1歳市場にてJRA抽選馬(育成馬ではなくて、抽選馬)として購買され、伊達秀和氏の所有馬となった。所属は美浦・伊藤竹男厩舎。デビューは1997年8月2日(土)の札幌競馬5R「新馬戦」であった。
12頭出走のダート1000m。ボヘミアンカバリエはそこで2番人気に支持された。記録を調べると、この新馬戦で、ボヘミアンカバリエは大外12番枠からのスタートとなったが、3角〜4角で徐々に順位を上げて、直線に向かうと2着馬に8馬身をつける圧勝ぶりだったようだ。タイムは1分1秒8。
その日は、同じ厩舎のもう1頭の2歳馬が、前レースの新馬戦に出走しており、そちらは残念ながらレース中に故障を発症し、競走中止(予後不良?)となっていた。言うならば、ボヘミアンカバリエは、僚馬の分まで激走してくれたのであった。
その日、札幌競馬場で、この同じ厩舎の所属馬が明暗を分ける結果となったのを一部始終見ていたのが、Yさんという女性である。そこからボヘミアンカバリエとYさんとの長いお付き合いが始まった。
「一目ぼれみたいなものでした」とYさんは当時を振り返る。それからボヘミアンカバリエを追いかけて、Yさんは各地に遠征するようになったらしい。
ボヘミアンカバリエが現役を引退したのは2000年12月のこと。通算31戦3勝、2着1回3着3回、獲得賞金3144万円というデータが残っている。
その後、ボヘミアンカバリエはいくつかの乗馬クラブを渡り歩き、乗馬として働いた後に、2008年秋、私の牧場へ転入してきた。Yさんがスポンサーになって、功労馬として私の元で繋養するようになったのだ。
ボヘミアンカバリエは、一言で表現すると、情緒の安定した落ち着きのある馬、であった。半面、ちょっとでも気になることがあると、なかなか言うことを聞いてくれない頑固さも持ち合わせていた。ただ、扱いやすくて、苦労させられたことは一度もない。入厩当時は13歳だったが、すでに老成したような風格を持っており、多少のことには動じない精神力の強さも感じた。
それが年齢を重ねて行くにしたがって、脚部に少しずつ難が出るようになった。前脚、とりわけ右前脚が不自由になってきて、ここ数年は歩様がひどくぎこちないものになってきていた。歩幅が狭くなり、膝が上がらないのである。内臓は比較的丈夫であったが、最後はこの前脚が命取りになった。
高齢の馬が生命を維持できるかどうかの判断は、まず「自力で立てるか否か」にかかってくる。2月24日のこと。Yさんが車で3時間の距離を私の牧場に駆けつけてきて、立てなくなったボヘミアンカバリエと最期のお別れをした上で、これ以上苦しませないようにと獣医師によって安楽死処分が施された。26歳。
それから1週間後のこと。今度は私の牧場で最高齢のロイヤルブライドが32歳で逝った。この馬は、長らく繁殖牝馬として町内の牧場で繋養させていたが、Fさんという男性が個人的に引き取り、2010年秋に私の牧場に連れてきた。21歳になっていた。
高齢になり春でも冬毛が目立つロイヤルブライド(撮影:2020年5月)
ロイヤルブライドはなかなかの名牝で、タイキエルドラド、タイキトレジャーと2頭の重賞勝ち馬を生んでいる。1989年米国生まれ。父はBlushing Groom。
Fさんは、この馬の身近にいて日々世話をしてきた元牧場従業員で、この馬に幸せな老後を送らせてやりたいと一念発起し、自身が預託料を負担することを決意したらしい。
以来、ちょうど10年間、ロイヤルブライドは私の牧場で暮らした。最後は、やはり馬房内で立てなくなったのが原因である。その前日の夕刻、放牧地から連れて帰る時の歩様が、不自然な脚の運び方になっているとは感じていた。果たしてその翌朝、馬房で横臥したまま、立てなくなったのである。32歳という年齢を考えれば、これもやむを得ないことのように思う。むしろ、よく長生きしてくれたものだと感謝したいくらいだ。
かくして、春の訪れを目前にして、2頭の功労馬が相次いで亡くなってしまった。馬の死はこれまで何度となく経験してきているが、やはり長年繋養してきた馬たちのこと、言いようのない寂しさと喪失感が残っている。ともあれ合掌。