桜花賞で2着だったサトノレイナス(牝3歳、父ディープインパクト、美浦・国枝栄厩舎)が、5月30日の日本ダービーに向かうことが明らかになった。
牝馬の日本ダービー参戦は2014年のレッドリヴェール(12着)以来7年ぶり。勝てば2007年のウオッカ以来14年ぶり、史上4頭目の快挙となる。
牝馬として初めてのダービー馬は1937年のヒサトモ、2頭目は1943年のクリフジ、そして3頭目がウオッカである。
今年が88回目となるダービー史上、出走した牝馬は129頭もいる。これだけ頭数が多いのは、戦前・戦時中は2歳のレースがなかったことも影響している。デビューから間もない3歳春は、成長も仕上がりも早い牝馬が、牡馬と互角以上に戦えるケースが少なからずあった。
現に、1932年の第1回日本ダービーから、戦前・戦時中最後のダービーとなった1944年の第13回日本ダービーまで、牝馬が5着以内に1頭も入らなかったのは、第9回と第13回の2回しかなかった。
第1〜13回のダービーで、牝馬が5着以内に2頭以上入った年をピックアップすると、第1回が3〜5着、第2回が2〜5着(6着も)、第3回が2、5着、第5回が2、4、5着、第6回が1、2着、であった。
このように、牝馬は昔からチャレンジを繰り返し、健闘してはいたのだが、なかなか勝ち切ることはできなかった――というのが、ダービーの歴史と言える。
強い牝馬がダービーの壁にはね返されてきたことを示すデータを、2つ紹介したい。
ひとつは、牝馬クラシックを制した馬がダービーに臨んだときの成績だ。右がダービーでの着順である。
タイレイ 1940年桜花賞馬 21着
ブランドソール 1941年桜花賞馬 7着
ミスセフト 1943年桜花賞馬 21着
ヤマイワイ 1944年 桜花賞馬 16着
ブラウニー 1947年桜花賞馬 3着
ハマカゼ 1948年桜花賞馬 17着
ヤシマドオター 1949年桜花賞馬 競走中止
トサミツル 1950年桜花賞馬 22着
スウヰイスー 1952年桜花賞馬 8着
フエアマンナ 1956年オークス馬 6着
ミスオンワード 1957年桜花賞・オークス馬 17着
ホウシユウクイン 1958年桜花賞馬 9着
チトセホープ 1961年オークス馬 3着
シャダイソフィア 1983年桜花賞馬 17着
ほとんどが桜花賞馬なのはなぜかというと、オークスは1952年まで秋に行われており、中・長距離で強い牝馬が特性を生かせる春の大舞台がダービーしかなかったからだ。これも、ダービーに参戦する牝馬が多かった理由のひとつになっている。
フエアマンナとミスオンワード、ホウシユウクイン(オークス3着)、チトセホープは、何と連闘でダービーに出走したのだ。
そして、もうひとつのデータは、オークスが秋に行われていた時代のオークス馬が、その前に臨んだダービーで何着だったか、というものだ。先のデータと同じく、右がダービーでの着順である。
アステリモア 1938年 3着
ホシホマレ 1939年 15着
ルーネラ 1940年 9着
テツバンザイ 1941年 4着
クリフジ 1943年 1着
トキツカゼ 1947年 2着
ヤシマヒメ 1948年 競走中止
スウヰイスー 1952年 8着
どちらも勝ったのは、菊花賞も制して日本の競馬史上ただ1頭の「変則三冠馬」となったクリフジのみ。トキツカゼは皐月賞を勝っており、スウヰイスーは牝馬二冠馬である。
牝馬にとって、ダービーを勝つのは至難のわざであることがよくわかる。
難しいからこそ、勝つことはもちろん、チャレンジすること自体にも価値がある。
ウオッカは阪神ジュベナイルフィリーズでアストンマーチャンを差し切り、桜花賞ではダイワスカーレットの2着に敗れたが、ダービーで栄冠を獲得した。
次にチャレンジしたレッドリヴェールは、阪神ジュベナイルフィリーズでハープスターを下し、桜花賞ではそのハープスターの2着となったが、ダービーに臨んだ。
そしてサトノレイナスは、阪神ジュベナイルフィリーズも桜花賞もソダシの2着となったのち、ダービーに向かう。
強い牝馬同士で接戦を演じたのちダービーに出走するという点は同じだ。
また、勢力図で言うと、ソダシがオークスに向かい、メイケイエールが短距離路線に行くあたり、ウオッカがダービーに向かい、ダイワスカーレットが牝馬路線(オークスは回避)を歩み、アストンマーチャンが短距離路線を進んだ2007年と共通するものがある。
2007年のクラシック世代は、早い時期から「この世代の牝馬は強い」と言われていた。今年は牡馬も相当強い。
面白いクラシックになりそうだ。