馬に乗って行うスポーツ、ホースボール(撮影:Jeanne Monteis)
猛スピードで繰り広げられる激しいスポーツ
ホースボール。その名の通り、馬に乗りながら団体で球技を行うスポーツのことだ。団体球技といえばイギリス発祥のポロの方が知名度は高いが、ポロがスティックで球を打つのに対して、ホースボールは手でボールを投げ、受け取り、シュートする。人馬一体となって猛スピードの中で激しいボールのやり取りを行うので「ケンタウロスのラグビー」と例えられることもあるという。
アルゼンチンのガウチョ(アルゼンチン版カウボーイ)たちの遊びであったパトが、ホースボールの元となっている。そのパトは1953年にアルゼンチンの国技に制定されているが、1970年代になるとフランス人がフィールドのサイズダウンをして、それまでよりも展開の早いスポーツに作り替えた。それがホースボールである。フランス生まれなのに英語の名称になったのは、世界中の人々が楽しめて、ゆくゆくはオリンピック競技にも選定されてほしいという願いが込められているからだ。
ホースボールは縦25m、横65mのフィールド内で行われる。時間は前後半10分ずつ、4騎対4騎(予備2騎ずつ・交代は自由)で闘う。シュートするまで3回以上パスをし、ボールの保持は10秒までと決められている。日本ホースボール協会のHPには、海外の試合の動画がアップされている。そこには鞍上の馬の操作の巧みさ、スピードに乗った走りをしながらも器用に立ち回る馬、その動きの中でボールがパスされ、決まるシュートなど、なかなか迫力があり、プレイ自体をもっと見てみたいと思わせる様子が映し出されていた。残念ながら日本での認知度はまだ低いスポーツだが、その日本において日本ホースボール協会を立ち上げ普及につとめているのが、西島隆史さんだ。
西島さんはかつて、netkeiba.comでもお馴染みの元騎手・赤見千尋さんの取材を受け、2016年10月11日公開の
コラム「競馬の職人」でも紹介されている。赤見さんの取材からおよそ4年。取材当時は静岡県御殿場市が拠点だったが、紆余曲折を経て千葉県富里市に拠点を構え、現在は元競走馬のサラブレッド4頭を日本ホースボール協会で飼養している。
西島隆史さんと、チャンピオンゴッド(提供:日本ホースボール協会)
詳しい紹介は次回以降にする予定だが、馬名と血統等を紹介しておく。
マルヨシャバーリー。2014年3月25日生まれ。父ロージズインメイ、母マルヨモザー、母父アグネスタキオンで、戦績は21戦3勝(中央)。
チャンピオンゴッド。2010年6月18日生まれ。父マーベラスサンデー 母アクティブサンサン、母父ブライアンズタイムで戦績は26戦14勝(うち中央3戦0勝、地方23戦14勝)。
ジュフォン。2017年3月18日生まれ。父Flatter、母Luster、母父Touch Goldで、戦績は6戦0勝(中央)。
ペガサスエース。2008年4月29日生まれ。父サンライズペガサス、母エースダンサー、母父ラストタイクーンで戦績は2戦0勝(中央)。
いずれも協会の練習馬として大切に調教されている。
日本での練習風景(提供:日本ホースボール協会)
西島さんが馬に興味を持ったのは、小学校高学年の頃に流行したダービースタリオンが最初だった。
「その頃“ジョッキーになりたい”と言っていたよと、両親が最近教えてくれました。自分自身すっかり忘れていたくらいの志だったのですけど」
中学生になって、京都競馬場にある乗馬施設のスポーツ少年団で乗馬を始めた。
「苦しいことが苦手だったので、半年で辞めてしまいました」
その西島さんがなぜ今ホースボールに打ち込んでいるのだろうか。
「大学時代に就職活動をしようとした時に、世の中に興味のあるものが全くなくて、卒業後はひとまずニートになり、その後ホテルマンとして働きました。大学の時からそうだったのですが、一生打ち込めるものを探していました」
西島さんの通っていた関西外国語大学は、留学する学生も多く、西島さんも何度も海外に行っていた。
「そもそも向こうは就職活動をしないとか、大学を卒業したらまず旅行するとかなんですよね。あの大学に行ったおかげで、会社に就職したら一生そこで働くという日本特有の固定観念がなくなりました」
西島さんがニートになって、時間をかけてでも自分の歩むべき道を探し求めたのもその影響もあるだろう。
ホテルマンとして働きながら、なお一生打ち込めるものを探していた西島さんが、ある日、運命的な出会いをした。
「書店で友人と待ち合わせていたのですが、友人がなかなか来なくて偶然手にしたのが乗馬雑誌でした」
頁を繰るとフランス代表のホースボール選手たちが、馬に跨って並んでいる写真が掲載されていた。
「そこには球技や馬など、僕が小さい時に好きだったものが全部入っていて、すごくかっこいい、絶対にやりたいと思いました」
「球技や馬、僕が小さい時に好きだったものが全部入っていて…」(提供:日本ホースボール協会)
その気持ちは強くなるばかりだったが、3か月ほど踏ん切りがつかず悶々として時間が過ぎた。
「踏ん切りがつかない自分が客観的に恰好悪いなと思って、ホテルを辞めてホースボールの道に進むことにしました」
この時、西島さんは26歳だった。
(つづく)
▽ 日本ホースボール協会 HP
https://www.horseballjapan.com/