日本ホースボール協会で飼養されているジュフォン(提供:日本ホースボール協会)
ホースボールをやる! 変わらない強い意志
ホテルマンを辞めて日本ではまだ海のものとも山のものともつかないホースボールの道に進もうと決めた西島隆史さんに対し、周囲は必ずしも賛成してくれるわけではなかった。
「初めて会う人にも、罵られたりもしました。何でこんなに言われるんだろ? と思うほど、罵声を浴びましたね」
西島さんが書店で偶然手にした乗馬雑誌の記事でホースボールを紹介していた元騎手の鈴木久美子さんと連絡を取り、ホースボールに取り組みたい旨を伝えた。
「鈴木さんがホースボールを日本で普及させようといろいろな働きかけをしていて、その当時6か所ほどホースボールをやろうとしている施設があったんです。それだけあれば、数年後には盛り上がっているのではないかと思って、僕も練習ができればなと思いました」
ただこれから普及させようとしている段階だったため、ホースボールだけを練習できるような場所がまだなく、乗馬雑誌に出ていた関西圏の乗馬クラブの研修生となり、馬に乗る生活が始まった。
「そこでもホースボールをやりたいと伝えたら、絶対無理、一生無理と言われました」
いくら罵られても、無理だと言われても、ホースボールをやるという決意は変わらなかった。
クラブの研修生になって3か月ほど経った頃、西島さんの実家のある京都に系列の新しいクラブができたため、そこへの異動を命じられた。
「最初は2年くらいで出て、海外にホースボールを学びに行こうと思っていたのですが、乗馬クラブも人手不足でなかなか抜けられませんでした」
その間、馬を使ったホースボールの練習もなかなか進まなかった。
「ボールを使うと馬のテンションがどんどん上がって弾けてしまうんですよね。今では会員さんに合わせた馬の調教の仕方がだいぶわかるようになりましたが、その時はまだ馬を弾けさせない馬づくりができませんでした。なのでバランスを鍛えることに集中して馬に乗っていました」
視察留学のため、ポルトガルへ
だがどうしても本場のホースボールに触れたかった西島さんは、クラブを辞めてポルトガルに1か月の視察留学を敢行した。ホースボールが1番盛んな国はフランスなのだが、なぜポルトガルだったのだろうか。
「フェイスブックでホースボールの選手の投稿に、いいねボタンを押しまくっていたんです。そしたら選手の方から友達申請をしてくれたんです」
フェイスブック上で憧れのホースボール選手と繋がりができ、ついにはホースボール連盟のトップから友達申請が来た。
「たくさん練習したいから留学先を紹介してほしいというメッセージをその方に送ったら、ウチのチームに来たらいいよと仰っていただきました」
そのトップはポルトガル人で、チームもポルトガルにあった。それで西島さんはポルトガルへと行くことになったのだった。
ポルトガルでの経験は強烈だったと同時に収穫も大きかった。実際に馬に乗ってホースボールを試合形式で行った。
「初めて試合形式で対戦した相手が、当時のポルトガルチームのキャプテンだったのですけど、馬の動かし方がとにかく凄過ぎました。馬の種類はサラブレッドだったのですが、ドリブルをする時の左右のステップが凄かったです。まるで自分の脚みたいに動かしていましたし、それをやられると全く前に出られないんですよね」
バスケットボールの経験がある西島さんは、馬に乗ってのボールのパスは問題なくこなせた。だが最初は馬群が怖かったという。
「一方向に進む馬群は大丈夫なのですが、馬が入り乱れた時に恐怖を感じました」
それにも慣れてくると、今度は馬上でプレイの面白さを体感するようになった。
「例えて言えば、サッカーをしたこともない人がいきなりサッカーの本場に行って代表選手と練習するみたいな感じだと思うのですが、馬上で『めっちゃおもろいな』を連発しながらボールのパスをしていました」
練習を終えた西島さんは、ポルトガルチームのキャプテンのように人馬一体となって自由自在に動けるようになりたいと思うと同時に、このスポーツは日本でもできるし、ホースボール用の馬も作れるという手応えを十分感じていた。またホースボールの本場で使われていたのがサラブレッドだとわかり、日本では引退した競走馬が活用できる可能性もあった。
日本ホースボール協会のエース、マルヨシャバーリー(提供:日本ホースボール協会)
(つづく)
▽ 日本ホースボール協会 HP
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