『黄金旅程』に込められた馳星周氏の愛
直木賞作家の馳星周氏が2020年1月〜2021年6月にかけ、「小説すばる」に連載していた「黄金旅程」が、完結後、加筆、修正されて、昨年12月3日に単行本として上梓された。年明けの1月19日には初版第二刷が出ているので、好調な売れ行きなのであろう。
直木賞作家の馳星周氏が連載していた「黄金旅程」
この「黄金旅程」という作品は、氏が好きだというステイゴールドに由来している。ステイゴールドの中国語表記が「黄金旅程」だ。
主人公は平野敬。装蹄師をやりながら、友人の実家である和泉牧場を格安で譲り受け、養老牧場も営んでいる。国道を挟んだ隣には栗木牧場という生産牧場があり、そこで生まれたエゴンウレアという馬を巡る壮大な物語、である。舞台は浦河。物語の冒頭は「浦河の町は粒子の細かい霧に覆われていた」と始まる。
エゴンウレアという馬名の由来は、物語の前半で紹介されている。バスク語(フランスとスペインに国境を超えて跨るバスク地方で使用されている言語らしい)から、取った名前だという。
エゴンウレアは稀代の癖馬で、「猛獣」のあだ名があるほど扱いの難しい馬である。G1 2着の実績があるものの、勝鞍は2勝しかない。だが、主人公はこの馬の幼い時から蹄の削蹄を担当していて、その高い潜在能力を買っていた。生産者の栗木祐一も同じ思いで、エゴンウレアに多くの期待を寄せている。エゴンウレアは、いわゆる「シルバーコレクター」として競馬ファンに知られた人気馬でもあった。
そこに、かつて中央競馬の花形騎手として活躍していた和泉亮介が、覚せい剤所持・使用の罪で検挙された後、刑期を終えて出所してくる。亮介は、平野敬と浦河第二中学校の同級生で、ともに競馬学校騎手課程に進んだ仲であった。のみならず、平野敬が譲り受けたのが亮介の実家、という設定だ。ストーリーはこの亮介が敬の前に姿を現すところから始まり、その後、エゴンウレアを中心にした人間模様が複雑に展開して行く。
平野敬は、30代の設定で、独身。騎手課程入学後に体重超過のため退学を余儀なくされ、その後、装蹄師への道を選択した。馬と関わる仕事を模索した結果である。門別競馬場の渡辺光徳という装蹄師の元で3年修業した後、門別競馬場で開業。しかし、当時3年目の若手騎手・権藤に暴力事件を起こしてしまったことから競馬場に居られなくなり、浦河に戻ってきたという過去がある。
エゴンウレアは、休養のため、浦河の吉村ステーブルに帰ってくる。なかなか気難しく人間に従順になってくれないエゴンウレアに辛抱強く接し、調教する役目が、出所した後の仕事に恵まれていない和泉亮介に託されることになる。
一方、平野敬の門別時代の師匠である渡辺が、体調を崩して療養することになり、敬にその代役が回ってくる。週二度という条件で敬は門別競馬場にも通い、そこで知り合った藤澤敬子という女性獣医と恋に落ちる。
これ以上の詳細な展開は本作をご一読して頂く以外にないが、作中には、浦河に実在する飲食店や施設などが実名で登場する。「堺町の生協」(パセオという名の町一番のスーパー)、「八雲」(人気のラーメン屋さん)そして、エゴンウレアが調教されるBTCや、その近くにある第三セクター運営のAERU(乗馬のできる宿泊施設、ウイニングチケットなどの功労馬も繋養されている)など、さながら観光案内のごとき側面も持つ。
事件が起こるのは、門別競馬場とその周辺である。罠にはめられた平野敬が、悪人三人組にむかわ町の海岸近くの漁師小屋の中で暴行を受けているさなか、大地震が発生する。実際に発生した胆振東部地震(2018年9月6日厚真町、むかわ町を中心に大きな被害が出た。門別競馬場も断水などにより開催休止に追い込まれた)にヒントを得た設定である。
作者は、今の日本の競馬が、ノーザンファームを中心としたいわゆる「社台グループ」によって半ば寡占状況にあることをよく理解しており、それに何とか対抗しようと日高の中小牧場が頑張っている姿を見て、エールを送りたいと考え、本作を執筆したのだろう。
そんな思いが作中に溢れている。なお敢えて漢字表記の「黄金旅程」というタイトルがなぜつけられたのかは、物語の最後まで読み進むとよく分かる。その後に続く「エピローグ」も、かなり感動的である。
余談ながら、作者の馳星周氏は、夏の間、浦河に滞在して過ごす方らしい。2020年7月に「少年と犬」で直木賞を受賞した際、浦河の居酒屋で電話を受けている。この居酒屋は「S」という店名だが、物語の中では「深山」となって登場する。店主の深田典夫もまた平野敬、和泉亮介と同級生という設定である。
深山は、音読みすると「シンザン」である。さり気なく浦河の生んだ5冠馬シンザンのことも作中に隠し味のように登場する。作者の浦河愛が伝わる名作と思った。競馬ファンにぜひご一読頂きたい作品である。(集英社、1800円+税)