凱旋門賞に関係する血統が散りばめられているドウデュース

3歳の頂点に立ったドウデュース(C)netkeiba.com、撮影:下野雄規
向こう正面に入り隊列が決まった前半1000m通過は、強引に飛ばしたデシエルト(父ドレフォン)による58秒9。高速化が進みもっと速いペースが記録された年もあるが、ちょうど中間地点の1200m通過「1分10秒6」は、この10年で2番目の猛ペースだった。
縦長の隊列の後方5番手で、なだめるように悠々と自分のリズムを守っていたのが武豊騎手のドウデュース(父ハーツクライ)。さらに間隔があって後方3番手がC.ルメール騎手のイクイノックス(父キタサンブラック)。
ハデな展開になったが、もっともリラックスした走法で周囲には他馬がいない展開。この時点でもう、武豊騎手は直線でのスパートのタイミングと、選ぶべき進路を展望していたのだろう。読み通りの流れを、落ち着いて追走。ドウデュースの能力がフルに爆発するのは間違いなかった。レース全体の後半1200mは「1分11秒3」。
中間地点で少なくとも先頭から2秒は後方に位置していたドウデュースは、前半は1分12秒台後半。すると自身の後半の1200mを1分09秒2-3(推定)で乗り切っている。スタミナ能力があった。
レース後のインタビューで、当然のようにオーナーと約束の「凱旋門賞挑戦」を明らかにしたが、2分21秒9のダービーレコードを、自身は後半1200mを前半1200mより推定「3秒以上」も速いスピードで記録している。その総合力を確信したからだろう。
ハーツクライ産駒は3歳時にちょっと伸び悩みの期間がある傾向があるが、ドウデュースはどんどん強くなっている。父ハーツクライは英アスコットのキングジョージ六世&クイーンエリザベスS12Fで差のない3着した底力を伝えることが珍しくない。
ハーツクライの母の父トニービンは、1987-1988年の凱旋門賞を2着、1着。また、ドウデュースの牝系に目を向けると、4代母はDarling Ladyダーリングレディ。その父Allegedアレッジドは、1977-1978年の凱旋門賞2連勝(さらにその3代父Ribotリボーは1955-1956年の凱旋門賞2連勝)
ダーリングレディ(1983)の半姉Navajo Princessナヴァホプリンセス(1974)は、輸入された20世紀最強馬の1頭ダンシングブレーヴ(1986年の凱旋門賞圧勝)の母である。ドウデュースの血統には凱旋門賞に関係する馬が散りばめられている。
クビ差2着のイクイノックスは、18番枠もあってスタートが決まらなかった。後方3番手は、結果的に流れは味方してくれたが、思い描いた位置とは違っていただろう。スムーズに外から進出した勝ち馬と違って、直線に向く地点でストレートに外に出せないロスがあった。上がり33秒6はドウデュースを上回っている。直線で進路を変更しつつドウデュースをクビ差まで追い詰めたレースの中身は勝ち馬と互角だった。
3着に粘ったアスクビクターモア(父ディープインパクト)の粘り腰は素晴らしい。中間の1200m通過地点で先頭との差は6馬身近くあった。仮に1分11秒5前後とすると、アスクビクターモア自身の後半1200mは1分10秒7であり、粘れなかった皐月賞とは別馬のようなしぶとさだった。弥生賞でも2番手から抜け出して快走したが、逃げ馬を追いかける形だと、少々ペースがきつくなってもがんばれる。母の父は1985年の凱旋門賞馬レインボウクウェスト。やがて長距離タイプに育つだろう。
1番人気のダノンベルーガ(父ハーツクライ)は、アスクビクターモアを捕らえられずに4着止まり。決して気配は悪くなかったが、ビシッと追って仕上げ、皐月賞から10キロ減の494キロ。キャリアは3戦。日本ダービーを勝つためには当然だが、まだ未完成の若い3歳馬に究極の仕上げを求めるのは厳しい一面もあった。いつもの迫力のフットワークではなかった。理想の中団にいたが、ずっと外にいたのがライバルの1頭ジオグリフ(父ドレフォン)。そのプレッシャーもきつかったように映った。
そのジオグリフは、好位にはつけられなかったが、ほぼ描いた通りのレースができたように思える。外から来た勝ち馬にあっさり交わされ、最後に鈍ったあたり、こちらは2400mが長かった。皐月賞では最後まで力強く伸びたが、スピード色が濃いだけに理想の距離は2000mまでなのだろう。
厳しいペースになって、結果は日本ダービーレコードの2分21秒9。武豊騎手と、C.ルメール騎手のペース判断が光ったと同時に、8着までをすべて一ケタ人気馬が独占。紛れはなく、上位4頭は皐月賞の「3、2、5、4」着馬。この世代の牡馬のトップグループのレベルはきわめて高いことを示す結果だった。