▲当時の武豊騎手と蛯名正義騎手(撮影:平松さとし)
競馬学校時代の同期である武豊騎手と蛯名正義騎手、互いにトップジョッキーへと上り詰め、そしてともにフランスへ渡った2010年の凱旋門賞。武豊騎手にとっては5度目、蛯名騎手にとってはエルコンドルパサーでの2着以来の2度目の挑戦でした。
武豊騎手はヴィクトワールピサ、蛯名騎手はナカヤマフェスタで出走しますが、「まるで戦争をしているようでした」と語るほど熾烈なレースにヴィクトワールピサは7着に敗れます。そんな中勝ち負けを争っていたナカヤマフェスタを見て武豊騎手は馬上から蛯名騎手にエールを送ります。そんな2010年の凱旋門賞を前夜の秘話を交えて振り返ります。
(構成=平松さとし)
ライバルから仲間へ 互いの健闘を誓い合った夜
2010年10月2日の夜。武豊騎手はパリ市内にある小料理屋で舌鼓を打っていた。
「明日があるから、今日はこのあたりでお開きにしましょうか」
武豊騎手がそう言うと、同席していた1人の男も首肯して、この日の食事会は早目の解散となった。“明日”3日はこの年の凱旋門賞が行われる日。そして、同席していた1人の男は、蛯名正義騎手(当時、現調教師)だった。
1987年に騎手デビューした武豊騎手。蛯名正義騎手は同期だった。2人が出会ったのは競馬学校時代。蛯名少年の第一印象を武豊騎手は次のように語る。
「方言が強くて、正直、最初は何を言っているのか分かりませんでした」
▲蛯名騎手とは競馬学校で知り合ったという(撮影:平松さとし)
一緒に学んだ3年間で気付いたのは「彼の真面目さ」と言う。蛯名調教師の事を「エビちゃん」と呼ぶ武豊騎手は続けて語る。
「当時の競馬学校はほとんど外出を出来ない制度でした。でも、食べ盛りの時期でもあるから皆で抜け出して何か食べに行くなどしたのですが、エビちゃんはあまり積極的に参加しませんでした」
デビュー後の2人は東西に分かれ、それぞれの道を歩む。デビューするやいなや勝ちまくり、次々と新記録や最年少記録といったタイトルを更新していった武豊騎手に対し、蛯名騎手は少しずつ、でも確実に上り詰めて行った。
共に押しも押されもしないトップジョッキーとなった後の2000年には、揃ってアメリカで修業をしている。もっとも、仲良く一緒に行ったというわけではなく、武豊騎手がサンタアニタ競馬場やデルマー競馬場を中心とした西海岸へ飛んだのに対し、蛯名騎手はベルモント競馬場やモンマスパーク競馬場のある東海岸にベースを置いた。
「現地で一緒になる事はなかったけど、東海岸で乗るエビちゃんのレースぶりはテレビで観ていました。『あぁ、乗っているな……』という感じで、やはり気になりましたよ」
武豊騎手は当時を振り返ってそう語った。
翌01年にはジョン・ハモンド調教師から声がかかり、フランスにベースを移した武豊騎手。日本を留守にする事も多くなり、必然的に勝ち鞍は減少。それまで守り続けてきたリーディングジョッキーの座を明け渡す事になったが、この時、新たにその座についたのが