競走馬の引退後のキャリアとして期待が寄せられるホースセラピー。ふれあいや乗馬など、馬との接触を通じて人の心身のケアをはかるものだ。
今回はホースセラピーに詳しい医師の話を交えながら、その効果や課題、引退馬支援も含めた将来性について掘り下げていきたい。
ホースセラピーとは
ホースセラピーとは、乗馬や馬の世話などの馬に関わる活動を通じて、人の心と身体のはたらきをよりよい状態に導くものである。
ホースセラピーを受ける人の課題に応じた多様なプログラムが各地で行われている。たとえば身体的機能を改善するための乗馬や、心の悩みを解決するためのふれあいなど、実施する組織やセラピーを受ける人によってさまざま。障がいのある人々の課題解決にも用いられている。
写真:本人提供
現在ホースセラピーを行っている場面としては、一部の福祉施設や乗馬クラブ、大学などの教育機関における地域貢献活動など。ホースセラピーに関する公開講座を開く大学もある。
まだまだ発展途上の分野ではあるものの、医学・学術的な立場からもその効果に期待がかけられている。
今回お話を聞いた児童精神科医の井上悠里先生も、ホースセラピーに期待を寄せるひとり。診察の傍らホースセラピーを探究、普及活動に取り組んでいるという。
写真:本人提供
井上先生は、ホースセラピーの特長について次のように話している。
「馬は他の動物よりも多くの役割を担えるため、得られるセラピーの幅が広いことが魅力です。
たとえば乗馬などで、身体の運動機能やリハビリテーションにおける効果が期待できます。乗馬を通じてどれだけ可動域が広がったか、身体機能が改善されたか、データで成果を測りやすいこともあり、これまで日本のホースセラピーは乗馬療法を中心に発展してきました。
また馬の世話を通じて、作業能力や認知向上にもつながると考えられています。そしてメンタルや発達に関する悩みにアプローチすることもできます。
馬に詳しい人、作業療法士や理学療法士、心理士、医師などの専門家といったさまざまなメンバーが集まって、それぞれの経験や専門性に基づいたプログラムを展開しています」
取材に基づき作成
ホースセラピーと医療の接点
井上先生の専門は児童精神科です。現在、岡山県の「まな星クリニック」で、発達障害や心の不調に自閉スペクトラム症(以下、ASD)に悩む子どもたちと日々向き合っている。
井上先生の専門においても、ホースセラピーは役立つのだろうか。
「たとえばASDの子どもたちは、感覚情報の処理(理解)に難しさに悩むことがあります。
周りの環境を捉えるために、人は五感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)や前庭覚(体の傾きやスピード、回転を感じる感覚)、固有覚(体の位置や動き、力加減を感じる感覚)を駆使して対応しています。ASDの場合、これらの刺激への感覚が極端に過敏だったり、鈍かったりすることがあります。
そこで専門家のもと、脳の発達期に必要な刺激を適切に受ける経験を重ねて改善をはかっていく感覚統合療法というものがありますが、馬との活動では、実に多くの馬ならではの刺激を体感することができます。
ふわふわ、ざらざら、つるつるの肌。触ってみれば温かい。乗ってみれば下から突き動かされたり、前後左右に動いたり、スピードの変化などいろいろ。そういった刺激をたくさん経験して、感覚を適切に理解できるようにしていきます」
写真:うまJAM 提供
「また、発達障害の子どもたちはコミュニケーションや社会になじむのに苦手意識を持つ傾向があります。そこで馬と接し、馬の表情や様子をよく見ながら行動することで、非言語コミュニケーションや社会性を養うことができます」
ホースセラピーによる課題解決は、発達障害の子どもに限ったことではない。
「発達障害に限らず、馬との接点は不登校などに悩む子どもや、ストレス社会に苦しむ大人にとっても意味があります。
心理的に大きなダメージを受けた時に、馬の体温を感じること、寄り添っていられること、受け入れられていると感じること。それが大きな助けとなります」
診察室でできること、できないこと
井上先生は馬の強みとして、人間とのつながりを持てる点を挙げた。
「馬は他の動物と異なり、元々社会性の強い生き物です。馬同士で集団を作り、その中で外敵に立ち向かう役、安全に餌場に導くリーダー役などが生じるといいます。
そのような社会性があるからこそ、人とのつながりを築くことができます。
また長らく人間と馬は共存してきたので、育てるための基本原理や原則も整っているのも馬のよいところだと思います」
「私は診察室でできること、できないことがあると考えています。
特に心の治療では、患者さんのお話にしっかり耳を傾けることが治療の基本です。でもそこで、何か自信をつけるための「活動」があるわけではありません。
実際ことばで『あなたを必要としている人がいるよ』『こうすればうまくいくよ』と言われても、なかなかそれで心が癒えるばかりではありません」
井上先生によれば、特に自己肯定感が低い人や対人不安が強い人は、人間の支援者やセラピストと関わることでも大きなストレス反応を起こす場合もあるそうだ。
しかしその点において馬は異なるという。
「馬は人の前に黙って佇んで、じっと人に向き合ってくれる。人にお世話をさせてくれる。馬を尊重し関わっていれば、仲間として受け入れてもらえる。そこで人は自らの役割を見つけて、自分を肯定できるようになります。これは診察室ではできないことですし、馬は人間の持つ偏見や価値観で評価してくることもない。人よりも馬のほうがずっと上手にセラピーをしてくれます。頼もしいことです」
写真:うまJAM 提供
ホースセラピーにおいて大切なこと
一方、井上先生はホースセラピーが夢のように症状が治る万能策ではないともいう。
「たとえば子どもにホースセラピーをさせたい、馬に乗せたいと保護者が思う一方で、子どもは怖がってしまうということがよくあります。やはりそこで無理をさせるべきではないのです。
段階的に馬と仲良くなることから始めて、少しずつ成功体験を積み重ねていくこと。セラピーを受ける側のモチベーションが大切です」
そして馬が関わるからこそ、欠かせないポイントがある。
「何より、ホースセラピーは安全を確保した上で行うことが必要です。落馬などで大怪我を負っては元も子もありません。十分なサポートのもとで対象者に応じてどういったプログラムが適切かを丁寧に検討する必要があります。
また、医療専門職が深く関わることで、より一人ひとりに合わせた効果的なアプローチにもつながります。馬に詳しい人と、人のセラピーに詳しい人のコラボレーションで、より質の高いセラピーが実現できるのではないでしょうか。
そのために、実施者に認定資格や講習、現場での経験を条件づけるといったことも考えられますが、なかなか簡単ではありません。むしろかえってホースセラピーの普及を遅らせる可能性もあるように思います。
だからこそ、各々の経験を共有し意見を交わす場が必要だと考えています。
現在日本でのホースセラピーは、それぞれのチームの経験や専門知識に根差す形で、多種多様に行われています。本当によいことです。
しかし他のチームと共通認識をもったり、専門外のことをデータ化したりするのが難しく、まだまだ効果のエビデンスを十分に集めきれていないのが現状です。それぞれの現場で観察できたことを研究会などで寄せ集めて、情報を共有していくことが大切だと思います」
(後編へつづく)
取材協力:
井上 悠里
まな星クリニック
取材・構成・文:手塚 瞳
協力:緒方 きしん
画像提供:井上悠里 うまJAM
監修:平林 健一
著作:Creem Pan
【記事監修】引退馬問題専門メディアサイト