先日、名古屋を経由して取材先に向かう仕事があったので、名古屋から東京に戻らず京都で1泊し、友人の墓参りをしてきた。
墓参りを終えてレンタカーを返す前に、京都市内のスタンドで給油しようとしたら、年配のスタッフ(経営者かも)から「レギュラーでリッター215円ですけど、いいですか」と聞かれた。私が思わず「いや、よくないです」と返すと、「信号3つ行ったところのコスモが175円だから、そっちで入れてください」と、送り出してくれた。
レギュラーがリッター210円を超えていることにも、おじさんが別会社の安い給油所を教えてくれたことにも驚かされた。
今思うと、燃費のいい小型車で、そんなに距離を走ったわけではないので、5、6リットルしか入れなかった。215円のほうで入れても200円ほどしか差がなかったわけだ。入れたコスモは安いことが知られているようで、何台も並んでいた。
あそこまで行って並んだ手間と待ち時間を考えると、次に同じようなことがあれば、親切なおじさんのスタンドで入れようかな、とも思ってしまう。おじさんは、損をしたようで、実は、得をしたのかもしれない。
ちょっと違うかもしれないが、先週、千歳からの飛行機が45分遅れたために航空会社が1万円くれたことを書いた。私は羽田から比較的近いところに住んでいるので得をしたように感じたのだが、その45分の間に、気づかないところで何か大きなチャンスを逃していたのかもしれない。まともに事が運んでいれば「なかったはずの未来」を歩んでしまったわけで、まともだった場合にどうなっていたのかは、神様でもわからない。
競馬はそれの連続で、例えば、内を突いたがために前が詰まって僅差で負けたとき、大外を回していたらどうなっていたのかは、誰にもわからない。勝っていたかもしれないし、もっと悪い結果になっていたかもしれない。
その馬が同じくらいの状態で、ほぼ同じ条件の次走を迎えたとしても、数週間なり数カ月経過しているといくらか加齢の影響があるわけだし、レースの流れがどうなるか、それがどの馬に有利に働くかなどは、ゲートが開いてみなければわからない。要は、「取り返しのつかないこと」の連続が競馬なのである。
クロフネは、2001年の天皇賞(秋)に出走できなかったから、武蔵野Sとジャパンカップダートに向かって圧勝したのだし、エフフォーリアは、2021年の日本ダービーで2着になったから菊花賞ではなく天皇賞(秋)に進み、コントレイルとグランアレグリアを下して優勝した。
出走権が獲れず路線変更を余儀なくされたり、鼻差の2着に敗れて三冠の夢がついえたりと、「取り返しのつかないこと」になった結果、最初に望んだとおりに事が運んでいたら迎えることはなかった未来を歩み、素晴らしい成績を残すことができたのである。
「取り返しのつかないこと」というと、私は若いころに読んだ4コマ漫画を思い出す。
年配の研究者に、助手の若い女性がこう語りかける。
「先生、また取り返しのつかないことをしてください」
研究者は少し逡巡したのち、精密機器を分解して基盤を取り出し、その上にかき混ぜた納豆をかける。
そして、ふと気づいたように、「ああ、何という取り返しのつかないことを!」と頭を抱える。
それを見た助手が「素敵」と、目を潤ませる──というものだ。
何十年も前に読んだ漫画なので、私の頭のなかで細かなところは変わっている可能性はあるが、大筋はこんなところだ。
あのスタンドのおじさんがもしバイトなら、年下の上司や経営者に「何やってるんだ」と怒られているかもしれない。少額の売上げを逃しただけとはいえ、「取り返しのつかないこと」には変わりない。が、私とのやり取りを思い返すと、あれが初めてではなく、何度も客にコスモを案内してきたようだ。
こうしてあの4コマ漫画や、スタンドのおじさんを思い出すと、「取り返しのつかないこと」を、それとわかって繰り返すことができるのは、本当に「素敵」なことなのかもしれない、と思えてくる。
失敗しても挽回できるようにと考えて事にあたるより、「取り返しのつかないこと」にチャレンジしたほうが、成功したときのリターンが大きく、失敗したときには「新たな自分」や「別の道」を見つけることにつながるのではないか。
私にとって、失敗したら夜逃げしなければならないほど「取り返しのつかないこと」になるチャレンジが見つかれば、ここで報告したい。
いつも以上にとりとめのない話になってしまった。