※本記事は「馬の安楽死を含む医療」をテーマとしているため、一部センシティブな写真を掲載しております。ご了承の上お読みください。
引退馬問題専門メディアサイト・Loveuma.では、その性質上、これまで多くの高齢馬について触れてきた。現在連載中の『ノーザンレイクダイアリー』『AERUで会える!』『引退馬コレクション』などは、競馬を引退して余生を送っている引退馬の“今”を取り上げるコンテンツである。
そして高齢の馬を扱うことはそれすなわち、“その馬の最期まで”を見届けるということだ。
実際に『ノーザンレイクダイアリ―』ではタイキシャトルが老衰により、『AERUで会える!』ではウイニングチケットが疝痛によりこの世を旅立った。
引退馬の最期は、獣医師により安楽死の処置が取られることが多い。最近では、ウマ娘をキッカケに多額の寄付を集めたことで話題となったナイスネイチャも、故郷の浦河渡辺牧場で安楽死となり、その生涯を終えた。
しかし、安楽死となった報告やニュースを目にすることは多くとも、実際の「安楽死処置の具体的な手順」や「獣医師が安楽死処置を進言する判断基準」等については、明確に理解していない方が多いのではないだろうか。
今回は、北海道苫小牧市に所在する、日本屈指の馬の専門病院として名高い「社台ホースクリニック」に勤める鈴木吏(つかさ)獣医師に、馬の安楽死について話を伺ってきた。
▲鈴木吏獣医師と愛馬マハロ・ヌイ・ロア(本人提供)
安楽死の判断基準
クリニックにやってくる馬たちは、生まれたばかりの仔馬から現役の競走馬、繁殖生活を送る母馬や種牡馬など幅広い。ここでは年間800件ほどの全身麻酔を伴った手術を行っており、クリニック全体での手術の内訳は、関節鏡手術が350件程度、開腹手術が100件程度。その他に、難産介助(帝王切開)、骨折内固定手術、膀胱破裂の手術、腹腔鏡手術、外傷縫合手術や、喉頭形成術、肢軸矯正手術など、年齢や手術の内容は多岐にわたっている。
▲社台ホースクリニック
▲勤務するスタッフの皆さん(本人提供)
▲取材に基づき作成(Creem Pan)
ここで2006年から馬の獣医師として命と向かい合ってきた鈴木獣医師。現在は年間800件ほどある手術のうち、350件ほどを自らが執刀しているという。馬の外科医のプロフェッショナルである鈴木獣医師に、安楽死の判断基準について尋ねた。
日本国内には馬の安楽死に関する明確な基準はないが、米国馬臨床獣医師学会 (AAEP)には、米国獣医師学会(AVMA)の『動物の安楽死指針』(正式名称:Guidelines for the Euthanasia of Animals)に基づいた『安楽死ガイドライン』(正式名称:Euthanasia Guidelines)があり、概ね国内でも同様の基準で判断されているようだ。
「4つの指標(判断基準)があります。1つ目は、慢性的で治癒不可能な状態によって生じる持続的かつコントロールができない痛みがある場合。つまり、痛み止めを使っても、常に痛みを感じ続ける状況です。
2つ目は、内科外科問わず色んな手を尽くしても、馬の良いQOL(生活の質)が確保できない状態。
3つ目は、生涯にわたって常に痛みを和らげるための鎮痛薬が必要で、かつ舎飼いが必要な状態。『舎飼い』とは、常に馬房内で生活させ、放牧や運動などさせないことです。
4つ目は、例えば神経障害など、馬の動きを制御できず、馬自身や取扱者が危険にさらされる状態。
以上のガイドラインが、安楽死という人道的判断を下す指針として示されています。」
▲取材に基づき作成(Creem Pan)
判断に影響を与える「経済的理由」
『安楽死ガイドライン』の前文に目を向けると「“once all available alternatives have been explored with the client”(日本語訳:利用可能なすべての代替案を顧客と検討した上で)」といった前置きがある。利用可能な(available)は意味の深い単語だ。「現代の獣医学において可能な」ではなく「利用可能な」と書かれている。馬は犬や猫に比べて体重が100倍もある。治療や手術には相応の金額が必要となる。治療によって治る可能性や、後遺症・リスクなどを総合的に考慮したうえで、経済的な理由が判断に影響を及ぼすことは少なくない。
「治療すれば生きられるけれど、後遺症(機能障害)が残る可能性が高く、受傷前の使役に耐えられるような状態には戻れない可能性が高いです。」という状況もある。
「そういった馬に『可能な限りの治療をしてください』と言えるオーナーばかりではないですし、現況においてそのような馬を受け入れる社会情勢が整っているとは思っていません」
例え命だけは助かったとしても、半永続的な継続治療や介護を必要とするようでは、その馬に費やす時間も、お金も莫大なものとなる。馬を飼う全ての人たちが、そういった選択肢をとれるかというと、決してそうとは限らない。
「『病気になった時に治療費を払えないぐらいだったら、そんな人は馬を飼う資格がない』という意見も耳にすることがあります。正論だとは思いますが、国内の馬の状況を考えると、非常に難しい問題です。引退競走馬の受け入れ先の拡大や、生き方の可能性を広げたい現状で、それを徹底しようとすると馬を飼える人は、かなり減ってしまいます。結果として、行き場のない馬たちが増えてしまうかもしれません。大きな病気もせずに天寿を全うすることもありますし、簡単に答えは出ません」
引退馬を取り巻く環境においても、この葛藤に直面するケースは多いのではないだろうか。
馬を養う人の中には、生活費を切り詰めながらランニングコストを工面している人たちも多く存在する。馬の命をつなげることと、その命に対する責任──決してひとつの意見だけでは片づけることのできない、難しいテーマである。
「私たち獣医師から経済的な問題を理由に治療の停止(安楽死)を積極的に進めることはありませんが、現実的には結果としてそのような判断がなされることもあります。
“available”に経済状況が含まれるかは、どこにも記載はありませんが、世界中で同様の判断がされていることが、そのことを反映しているであろうと個人的には解釈しています」
現場では、先述した4つの判断基準と併せて、"経済的な理由"も考慮せざるを得ないケースもあるとのことだった。
では、最終的に安楽死が適当であると判断された馬は、どのような最期を迎えるのだろうか。
次回は、「安楽死処置の具体的な手順」について伺っていく。
(次回は2023.10.09公開予定です)
取材協力: 鈴木吏 社台ホースクリニック
取材・文:片川 晴喜
デザイン:椎葉権成
協力:緒方 きしん
監修:平林 健一
著作:Creem Pan
【記事監修】引退馬問題専門メディアサイト