※本記事は「馬の安楽死を含む医療」をテーマとしているため、一部センシティブな写真を掲載しております。ご了承の上お読みください。
第1章でも触れたように、利用可能なすべての選択肢を用いても状態に改善が見られない場合、米国馬臨床獣医師学会(AAEP)によって提唱されている『安楽死ガイドライン』(正式名称:Euthanasia Guidelines)を主な判断基準として、安楽死の処置が執り行われることがある。
だが、それはあくまで最後に残された選択肢であり、それまでには様々な治療が行われる。
急患の診断
馬の急患にも色々なケースがあるが、外傷などの患部が目に見えて分かるものもあれば、何らかの理由で疝痛を引き起こした馬が運ばれてくる場合もある。
▲ホースクリニックへ運ばれてきた馬
▲診療室で体重測定を行う様子(本人提供)
「疝痛の原因は色々あるので、まずは診察をします。発症から治療までの時間の長さが予後に影響する疾患も沢山ありますので、手術が必要な疾患であるかどうかを判断する事が、疝痛の診断として一番大切なことです」
疝痛を一目見て原因を特定することは難しく、即時の手術を必要とするものや、判断するためには経過観察をする必要のある状態のものなど、そのケースごとに対応の仕方が変わってくる。そのため迅速かつ詳細な検査を行う必要があるが、馬は腹部の大きい生き物のため、検査が難しい。
「馬の疝痛の検査で、一般身体検査の次に大切な検査はエコー検査です。今では、エコー検査でかなりの症例の診断ができています。ですが、エコーも万能ではありません。エコーでみられるのは体表から約30cm程度の外側の方だけ。体の中心の深いところまでは届かないんです。また直腸検査というものもありますが、これもお腹の30%程度しか触れないんです」
直腸検査とは、肛門から直腸へ手を挿入して行う触診のことであるが、これでは腹部の前方部分までは手が届かないようだ。
▲エコー検査の様子(本人提供)
ここまでの検査で、救命するためには手術が必要だと判断された場合、最終的に確認すべき大切なことがある。
「開腹手術をするかどうか」という選択である。
「私たちは依頼されて検査を行います。そして、その検査結果に対する考えをオーナーに提示して協議します。主に、手術をすれば助かる可能性と、手術をしなかったら助からない可能性などについて。あくまでも手術を選択するかどうかはオーナーに決めていただくことになります」
獣医師は外科手術の提示はするが、最終的な決定は馬の所有者に委ねられるようだ。
そして、そこには第1章で紹介した『経済的理由』が深く関わることとなるのであろう。
▲馬立位CT検査の様子(本人提供)
経済的な判断基準
実際に開腹手術をするとなった場合、鈴木獣医師が勤める社台ホースクリニックでは、どれくらいの費用が掛かるのだろうか?
──その答えは、およそ75〜100万円。(入院・術後治療も含む)
これは日本トップレベルの技術と実績を誇るクリニックだからこその価格…という訳ではない。馬の開腹手術を頻繁に行う施設は国内(道内)にあと一つあるが、おおよそ変わらない値段ということだ。
「まず、第一に馬は身体の大きな生き物ですから、薬にしても人件費にしても費用が掛かります。開腹手術に限らず骨折の手術も同じで、専門性の高いことをやる訳ですし、使うプレートも沢山種類がありますから、様々なケースに備えて取り揃えておくというだけでも、何百万もの資金を先行して投資しなければなりません」
▲整形外科器具の一部
▲開腹手術器具(本人提供)
犬や猫のような愛玩動物には“ペット保険”が存在する。
アニコム損害保険株式会社によると、犬の骨折にかかる医療費の相場は27万円ほど。
保険料は大きさや年齢、プランによって異なるものの、治療費の50%を受け取ることが出来る定率保障の相場は、月々2,000〜7,000円程度となっている。
そして馬にも“競走馬保険”というものが存在する。
株式会社ジェイエス(引受保険会社:三井住友海上)が扱っている競走馬保険では、「火災・落雷補償特約、腰痿症候群等補償対象外特約、保険金額の調整に関する特約、法定伝染病補償特約、サイバーインシデント限定補償特約(サイバー攻撃以外およびサイバー攻撃による火災・破裂・爆発限定)」が全ての契約に盛り込まれていて、万が一の場合に決まった額の保険金を受け取ることが出来る。
※別途、競馬主催者が運用している“見舞金制度”というものもあるが、そちらについてはLoveumagazine『「なぜ馬は走り続けることが出来ないのか」JRA馬主・塩澤正樹 3/3』にて解説しているので、興味のある方はご一読いただきたい。
だが、先述の“競走馬保険”が対象としているのは、育成馬、現役競走馬、種牡馬・繁殖牝馬に限られている。つまり、競馬産業のサイクルから出てしまった引退競走馬や引退繁殖馬、乗馬などには適用されない。農業組合などが提供している共済制度も存在するが、それらも17歳までの馬を対象とするものが多く、高齢馬になると医療費は全て自己負担になるという話もよく耳にする。「馬を救いたい」という気持ちは、みな等しく持っている。だからこそ馬はクリニックへ運ばれてくる。だが、手術に踏み切るか否かは、こういった経済的な要素も踏まえて判断をしなければならない。
獣医師としての提案
では、実際に手術をするとして、成功する確率はどの程度なのだろうか。
「非常に大雑把に言うと、今は、疝痛で手術をされた馬全体の8割くらいは助かっています。術後1年経過時の生存率も全体の7割以上あります。助からなかった2割の中には、『厳しいと思います』と伝えたうえで、『それでも助かる可能性がゼロではないなら一応やってください』と言われて手術をした馬も含まれています。もちろん助かる馬はゼロではないんですが、やっぱり助からないことの方が多いです」
▲開腹手術を行う鈴木獣医師(本人提供)
年間約50頭前後の開腹手術を手掛ける鈴木獣医師。
その経験から、大方「この馬が助かりそうか、難しそうか」という見当は付くそうだ。
「例えば“腸ねん転”で、あまりに捻じれが酷かったり、時間が掛かっていたりすることで、腸管の状態が悪い場合には、全摘出という事になります。そうすると、さすがに馬は生きていけないので、『申し訳ありませんが、もう助けられない状態なので麻酔を覚まさずに楽にしてあげましょう』と提案して、全身麻酔のまま安楽死の判断をしてもらうこともあります」
治療の継続と安楽死のどちらも納得できず、馬を連れて帰る人もいるようだが、それで助かるケースは少ない。特に時間との勝負である急患の場合、他院でセカンドオピニオンを待つ時間はあまり残されていないという。
「余程の場合でなければ、私たちも『安楽死した方が良い』なんて言いません。助けられる命は助けられるように、我々もあれこれ検討します」
先述の通り、最終的な治療方針の選択権は馬のオーナーにある。
大前提として、サラブレッドは経済動物であるため、オーナーの目線では「経済的に価値のある種牡馬や繁殖牝馬であれば、例え厳しくとも一縷の望みにかけて手術をお願いするが、そうでない馬は早々に諦める」といったこともあるのだろう。
兎にも角にも、利用可能なすべての選択肢を提示することが、獣医師の責務となっている。
▲治療した馬を往診する鈴木獣医師(本人提供)
(次回は2023.10.23公開予定です)
取材協力: 鈴木吏 社台ホースクリニック
取材・文:片川 晴喜
デザイン:椎葉権成
協力:緒方 きしん
監修:平林 健一
著作:Creem Pan
【記事監修】引退馬問題専門メディアサイト