ついにイグナイターがJBCスプリントを制覇しました。ダートグレード3勝を挙げるも、昨年の同レースや南部杯などGI/JpnIの舞台では跳ね返されてきましたが、陣営は諦めるどころか日を増すごとに強い決意を胸に挑戦。その末に手にしたビッグタイトルでした。
しかしながら、その陰には大きな葛藤もありました。新子雅司調教師にとっては8年前、今回と同じ大井競馬場で行われたJBCスプリントの直後にタガノジンガロが急死したことによって時が止まります。また、イグナイターを担当する武田裕次厩務員も担当馬の突然死を経験したことがありました。
「最後はジンガロがあと押ししてくれたと思います」。新子調教師が声を震わせた思いにまつわる「ちょっと馬ニアックな世界」です。
「君に出合えたことを誇りに思う」急死の管理馬へ
地方競馬に携わる者にとって大井競馬場は特別です。各競馬場にそれぞれの良さがあるのは重々承知ですが、地方競馬の中で群を抜く規模とレベルの高さから、園田・姫路競馬の関係者は大井で勝つことを目標の一つに置く人も珍しくありません。
しかし、その壁は高く厚いもので、園田・姫路競馬にとってここ10年は鬼門のような存在となっていました。
「兵庫の雄」と称され、3歳時には大井で黒潮盃を制したオオエライジンも、古馬になって以降はその壁に跳ね返された1頭でした。
各地に遠征しながらダートグレード制覇を目指していた2014年6月。帝王賞JpnIに挑んだオオエライジンは希望していた1枠1番を引き当てました。鞍上の下原理騎手はインの立ち回りが上手いジョッキー。「道中はロスなく運んで、直線で外に出せたら」と、地元を発つ前に話していた通りのレースぶりで、最後の直線を迎えます。
ところが「さぁここからだ」というところで突如としてオオエライジンはガクッと崩れ落ちました。ギリギリのところで踏ん張り、下原騎手は落馬しなかったものの、脚は痛々しく皮1枚だけで繋がっているような状態。左前球節部完全脱臼で、安楽死の決断が下されました。
その翌年。JBCスプリントに挑むタガノジンガロと新子雅司調教師の姿が大井競馬場にありました。
「追い切りの感じから、めちゃくちゃ状態がいい」と、自ら調教に跨るからこそ自信を抱いた新子調教師。
前走の東京盃で1200mの流れを経験したことも追い風となり、抜群の状態だったジンガロは好ダッシュを決めて3番手につけました。
そして、いい手応えのまま4コーナーを回ってきたのです。直線で突き抜けられれば、と力が入りましたが、それまでの手応えが嘘だったかのように急失速。14着でゴールすると、鞍上の木村健騎手は「うぉっしゃぁ、いけるっ! と思って回ってきたんやけど、あれ? ってくらい手応えがなくなって……」と首を傾げながら馬から降りました。
▲JBCスプリントの4コーナーを絶好の手応えで回ってくるも、直線では急失速。この後、悲劇が待ち受けていようとは……。
検量室脇の馬道を歩いて厩舎に帰っていくジンガロの後ろ姿を見つめながら筆者が「やれると思いましたけど……」と新子調教師に声をかけると、「ホンマに」との返答。好スタートを決めたこと、前付けできたこと、ダートグレード競走でも見劣りしないスピードを見せたこと。
レースを振り返りながら話していると、さっきジンガロが曲がったばかりの角から係員が走ってきました。
「タガノジンガロが倒れたっ! 調教師さん、いますか?」
顔面蒼白になった新子調教師は「僕です」と走っていきました。すると、目にしたのは角を曲がったところで地面に倒れ込んだジンガロ。心臓マッサージが施され、「一瞬ピクッと目を開けた」と言いますが、ほどなくして息を引き取りました。
ダート競馬の祭典の陰で、地元・園田から遠く離れた地でひっそりとその生涯を終えました。
▲タガノジンガロの急死後、園田競馬場には献花台が設置され、多くのファンや関係者が手を合わせました。
▲献花台で1ページ目の最初に記帳した新子雅司調教師のメッセージ。
あの時の恐怖を新子調教師はずっと抱え続けたままでいました。ジンガロの遺髪は常に胸ポケットに入れてレースに臨み、いつかジンガロのように強い馬を育てて、ダートグレード競走を勝ちたいと、毎日厩舎のほぼ全頭の調教に跨ってきました。
その甲斐あって、2018年に黒船賞JpnIIIをエイシンヴァラーで、同年サマーチャンピオンJpnIIIをエイシンバランサーで制覇。地元でもリーディング厩舎へと成長しました。
ところが、競馬は生き物相手。再び悪夢が襲います。それは、2020年に金沢競馬場で行われた北國王冠。中長距離路線で強さを発揮し、ダイオライト記念JpnIIで5着にも入ったタガノゴールドと挑みました。
レースは直線で一旦は先頭に立ったものの、差し返されて2着。その入線直後、ゴールからほんの数十メートル先でタガノゴールドはバタリと倒れてしまいました。
「何とか無事に兵庫に帰ってもらいたいところですが……」
場内実況でも無事を祈ってくれたものの、ジンガロと同じ急性心不全でした。担当の武田裕次厩務員は、主を失った空の馬運車で金沢から園田に帰ってくることとなりました。
「園田のみなさん、やりました!」再び動き出した時間
その翌年。新子厩舎に1頭の3歳馬がやってきました。その名は、イグナイター。JRA東京競馬場で新馬戦を圧勝し、南関東を経ての移籍でした。
新子調教師が指名した担当者は、武田厩務員。その後のイグナイターの快進撃は読者のみなさんも知るところです。昨年、黒船賞JpnIII、かきつばた記念JpnIIIとダートグレード競走を連勝すると、NARグランプリ年度代表馬に輝き、今年は5月にさきたま杯JpnIIも制覇。
▲園田の田中学騎手と黒船賞JpnIIIを制したイグナイター(撮影:稲葉訓也)
そうして、秋初戦の南部杯JpnI2着から挑んだJBCスプリントで悲願のGI/JpnI初制覇を果たしたのでした。
▲JBCスプリントを制したイグナイターと笹川翼騎手(撮影:高橋正和)
レース直後、イグナイターの帰りを待っている間、新子調教師が多くの人から祝福を受けた場所は、8年前にタガノジンガロが亡くなる直前に歩いた馬道のすぐ脇でした。
野田善己オーナーや関係者が笑顔で大喜びする隣で、武田厩務員は表情を崩さず淡々とイグナイターを曳いていました。
▲優勝レイを纏うイグナイター(撮影:高橋正和)
言葉を喋り、自分の力で病院に行くことができる人間でさえ、原因不明の突然死が訪れることがあります。それが競走馬となれば、防ぎようのない事故なのですが、新子調教師はずっと葛藤を抱えていました。
絶好調で迎えたさきたま杯もそうでしたし、今回はましてやジンガロが亡くなったのと同じ大井競馬場でのJBCスプリント。否が応でも、悲しみと自責の念を思い出したといいます。
「レース前は楽しみ半分、怖さもありました。自宅でも僕自身、ちょっとピリついていて、妻には無言の圧力をかけていました。妻はその雰囲気を察してくれていたと思います」
かつて肌身離さず身に着けていたジンガロの遺髪は、数年前に「いつまでもコイツに頼っとったらアカンな」と胸ポケットから取り出し、封印していたのですが、この日はどうしたのでしょうか。
「持ってこようか迷いましたが、あえて持ってきませんでした。ジンガロから時間が止まったような時期がありましたが、何とか勝ててよかったです」
イグナイターを勝利に導いた笹川翼騎手は勝利ジョッキーインタビューでこう言いました。
「園田のみなさん、やりました!」
新子調教師も武田厩務員も、そして急死の悲しみを抱き続けていた園田ファンの胸にも届いた大きな大きな勝利となりました。
▲「園田のみなさん、やりました!」(撮影:高橋正和)
▲“チーム園田”にもたらした大きな大きな勝利(撮影:高橋正和)