コディーズウィッシュとコディー・ドーマンさんの友情
大きな支えとなっていたのは深い絆だった
2023年11月4日(土曜日)にサンタアニタパーク競馬場で開催されたG1BCダートマイル(d8F)を前年に続いて連覇したコディーズウィッシュ(牡5)と、深い心の絆で結ばれていたコディー・ドーマンさん(17歳)が、5日(日曜日)に他界した。ドーマン・ファミリーが、6日(月曜日)に明らかにしたものだ。
ケンタッキー州に住む、ケリーとレスリーのドーマン夫妻の長男として、2005年11月21日の生まれたのがコディーさんだ。出生前に染色体異常があることが確認されていた彼は、出生後、医師によりウォルフ・ヒルシュホーン症候群(=WHS)と診断されていた。
ヒトには1〜22番まで各1対・計44本の常染色体と、1対・2本の性染色体が存在するが、このうち、4番染色体の一部(短腕4p16.3領域)の遺伝子が、微細欠失することで引き起こされる疾患がWHSで、胎児期から成長障害や精神発達の遅れが見られるほか、筋緊張低下や摂食障害、消化器系や泌尿器科系に不調をもたらす難病だった。発症率は5万人に1人と言われ、ドーマン夫妻は医師から、長くても生きて2年という、残酷な宣告を受けていた。
幾たびもの手術や、度重なる困難を乗り終え、医師の宣告よりも遥かに長く生きたコディーさんは、12歳の誕生日を迎えた時、両親に「馬を見に行きたい」とせがんだ。ケンタッキー州に生まれたというのに、コディーさんは馬に触れたことも、馬の匂いをかいだこともなかったのだ。
コディーさんの父ケリーさんの仕事は機械製造業で、競馬とはまるで縁がなかったが、アメリカには、難病と闘う子供たちの夢をかなえるために設立された「メイク・ア・ウィッシュ・ファウンデーション」という団体があった。実現まで1年近い時間がかかったものの、コディーさんは18年の秋に、ケンタッキーにある名門牧場のゲインズボロー・ファームを訪ねることが出来た。
コディーさんはそこで、離乳されて間もない、生後6か月のコディーズウィッシュと、初めて出会ったのである。当歳馬は車椅子に乗ったコディーさんのすぐ脇まで来ると、コディーさんの膝の上に頭を乗せたり、コディーさんの匂いを嗅いだりして、30分ほど交歓の時を持ったという。
その2年後、コディーさんは再びゲインズボロー・ファームを訪れる機会を得た。コロナウイルスのパンデミックで、唯一の楽しみだった散歩が出来なくなり、コディーさんは鬱病を発症。表情をなくしたコディーさんを、何とか元気付けたいと、両親のケリーさんとレスリーさんは藁をもすがる思いでゲインズボロー・ファームに連絡したところ、快く再会の場を設けてくれることになったのである。
牧場に到着したドーマン一家を待っていたのは、驚くような知らせだった。2年前にコディー・ドーマンさんが会った仔馬に、コディーズウィッシュ(=コディーの願い)という競走馬名がつけられていたのである。
そんなドーマンさん一家の前に現れたのは、2年前とは見違えるように大きく成長した、コディーズウィッシュだった。
そこで奇跡が起きた。コディーズウィッシュは、車椅子に乗ったコディー・ドーマンさんを覚えていたのである。車椅子に乗ったドーマンさんに近づくと、2年前と同じように、コディーさんの膝の上に頭を乗せたり、コディーさんの匂いを嗅いだりした。
ここで、2度目の奇跡が起きた。鬱病で、わずかな笑みすら漏らすことのなかったコディー・ドーマンさんが、ケラケラと笑い出したのである。
W.モット厩舎の一員となったコディーズウィッシュは、3歳6月にデビュー。初勝利をあげるのに4戦を要したが、その後は順調に出世し、4歳秋にはキーンランド競馬場で行われたG1BCダートマイルに優勝した。
レース後、ウイナーズサークルで撮影された記念写真には、車椅子に乗ったコディー・ドーマンさんの姿も映っている。
11月4日のサンタアニタ競馬場にもコディーさんは出向き、コディーズウィッシュがBCダートマイル連覇を成し遂げる瞬間を目撃している。
ところが、カリフォルニアから自宅にあるケンタッキーへの帰路に、コディーさんの容態が急激に悪化。18歳の誕生日を目前にして、黄泉の国に旅立ってしまったのである。
両親は、発表したステートメントの中で、長くて2年という見立てより遥かに長く生きたコディーさんの人生において、大きな支えとなっていたのが、コディーズウィッシュとの友情であったとして、メイク・ア・ウィッシュ・ファウンデーション、ゲインズボロー・ファーム、馬主のゴドルフィン、調教師のW.モット、訪問先となった各競馬場関係者に、心からの謝辞を述べている。