先週水曜日の夜、岳父が世を去った。がんや脳梗塞、心臓の弁の不具合など、いくつもの病気と闘っていた。見守っていた家人によると、眠るように息を引き取ったという。94歳だった。
海軍兵学校最後の期のひとりで、早大卒業後、竹中工務店に入社。若いころは東京タワーの建設に携わり、50代のときUAEのアブダビ空港建設責任者として現地で指揮をとり、役員に上り詰めた人だ。
私は、自分が苦しくなったり、逃げ出したくなったりしたとき、岳父を見て自分を勇気づけていた。自分よりちょうど3回り年上の岳父が、外では堂々と振る舞い、家では柔和な笑みを絶やさずにいる姿を見て、「何かをやり遂げるのにあと36年かかったって、お義父さんのように立派な人が現実にいるんだから、焦らず、じっくり頑張ろう」と自分を奮い立たせてきた。
寺山修司のまねをして大学を中退した私が、急に箱根駅伝などで早稲田を応援するようになったり、子どものころ好きだったが久しく興味を失っていた読売ジャイアンツを「我が軍」と呼ぶようになったりしたのも、岳父の影響だった。岳父は逆に、私の影響で、競馬を見るようになっていた。
背が高く、低いがよく通る声で、ゆっくりと話す人だった。
秋天の日の朝、危ないと聞いて家人と駆けつけたら、着いたときには意識が戻っており、私たちに申し訳なさそうにしていた。心配をかけてはいけないので、私が追突事故に遭ったことはその日まで黙っていたのだが、現場の写真を見せると「よくこれで無事だったね」と笑っていた。競馬場で取材をしたあとも様子を見に行ったら、朝と同じように、寝たきりではあったが、頭の回転や表情は、私が尊敬する岳父のままだった。その夜が、私と普通に話ができた最後の時間となった。
私にとってものすごく大きな存在で、自慢の岳父だった…
財界の知人の伝手で、一度だけ、取材に応じないことで知られる馬主に話を聞くための橋渡しをしてもらった。また、私は会ったことはないのだが、海軍兵学校の同期で、JRAの理事になった人もいた。
逝ったのは、私の誕生日の前日だった。来月の岳父の誕生日も一緒に祝おうと話していたのだが、叶わなかった。
――お義父さん、お手本になってくれて、ありがとうございました。天国でゆっくり休んでください。
義母や、長女である家人とその弟は、介護事業所関連のやり取りや、葬儀や相続の手続きなどに追われている。身近で、悲しみの大きい人ほど忙しくなるようにできているのが、せめてもの救いだ。
私も「Number」の秋天レポートや、「優駿」の25枚のノンフィクション、寺山修司の没後40年の原稿、来月上梓する自著のゲラ戻しや本稿を含む連載などで忙しく、悲しむ時間が短くなって助かった。寺山修司の没後40年特別企画展のポスターが数日前に送られてきて、これを岳父に見てもらいたかったと思うとまた泣きそうになってしまうのだが、どうにか耐えている。
さて、岳父が亡くなった2日後、11月3日に相馬野馬追執行委員会総会が開催され、相馬野馬追開催日程が、これまでの7月最終土・日・月曜日から、5月最終土・日・月の3日間に変更されることが発表された。
本稿の読者にとってはいわずもがなだろうが、日本ダービーと重なる。
残念だが、馬にとっても人にとってもいい季節は同じなのだから、仕方がない。
東日本大震災が発生した2011年に初めて取材してから、コロナ禍で神事のみとなった2020年以外は毎年行っていたのだが、これからは、ダービーが6月初めの開催になった年しか行けそうにない(そんな年がまた来るのだろうか)。
馬ではなく車のレースだが、世界三大レースのひとつであるアメリカのインディアナポリス500、いわゆるインディ500も5月の最終日曜日だ。それもあって、私は、競馬とモータースポーツの両方をカバーしていたころ、インディ500を一度しか取材できなかった。
今年、写真集『相馬野馬追ファンガイド 2022-2023』を出した斉藤和記さんは、インディカーの撮影をライフワークとしながら、野馬追を取材してきた人だ。
日程発表後は連絡を取り合っていないが、きっと頭を抱えているだろう。
大げさな言い方かもしれないが、自分の一部になっていた人も、取材対象も、仕事も、ずっとそのままであることはない――と、最近つくづく思う。人の気持ちも、評価も、見方も、関係も変わる。それに合わせてこちらが構えを変えなければならないこともある。まさに、世は無常である。