騎手を背に乗せ、時速60km以上で大観衆の前を駆ける競走馬。だがその光景は、ただ漠然と年月を重ねるだけで生まれるものではない。
幼い“ウマ”はまず、人との信頼関係を構築し、基礎体力を身に付けるための「初期・中期育成」が行われる。さらに、競走馬としてデビューを果たすには、鞍を乗せ、人を乗せて走れるようになることが必要だ。
そのために牧場では、具体的にどのようなトレーニングとコミュニケーションを施しているのだろうか。
今回は、北海道沙流郡日高町に所在する下河辺牧場で、育成・トレーニング部門を担当する下河辺隆行さんに、“ウマ”から競走馬にする方法を伺った。
なお、こちらの記事では一部、下河辺牧場から提供された映像のキャプチャ画像を使用する。各画像の下部にタイムコードを記載しているので、興味のある方は映像本編もご覧いただければと思う。
■映像本編「騎乗馴致」(提供:下河辺牧場)
※「初期・中期育成」についてご存知でない方は、以下をご一読いただくと、本記事もよりスムーズにお読みいただけます▼
「馬は人をそもそも乗せない!? 競走馬を作り上げる、絶妙な“馬への怒り方”|新冠橋本牧場・橋本英之 1/2」 「人馬一体の裏にあるのは、過酷とも思える母馬との別れ|新冠橋本牧場・橋本英之 2/2」競走馬となるための「最大の試練」
下河辺牧場は、生産から育成までを行う「総合牧場」だ。
元々は生産牧場として、1966年に開場した。1995年に育成牧場が新設され、今では4棟100馬房におよぶ育成厩舎と、各厩舎に併設されたロンギ場(丸馬場)、600mのダートコース、1400mの外馬場、1150mのウッドチップ屋内坂路など、充実したトレーニング施設を有する。
ここで鍛え上げられた生産馬の中には、キセキやダノンシャーク、三冠牝馬のスティルインラブ、最近ではソウルラッシュなど多数の活躍馬がおり、2024年も今日まで生産者リーディング上位の成績を収めている。
以前『Loveumagazine』で紹介した新冠橋本牧場では、仔馬が生まれてから離乳までの初期育成、育成牧場に移って騎乗馴致を行うまでの中期育成について話を伺ったが、今回取材した下河辺牧場では、育成施設を有する総合牧場として初期・中期育成に加え、後期育成も行っているため、後期育成を中心に話を伺った。
「まずは『枝バミ』という特殊なハミを使って、ハミに慣れてもらうところからスタートです。
そして、タオルの匂いを嗅がせて『怖くないんだよ』と教えてから背中に乗せて、腹帯を締めるということもやってから、初めて鞍を付けます。
また、その間にロンギ場で“ロンジング”も始めます」
▲枝バミ(上)と、装着した状態の馬(下)(提供:レイクヴィラファーム)
枝バミはドライビングで馬に左右を教える際に使いやすいようだ。
また、ハミ環(ハミの上部にある輪っか)が口に入ってしまう事を防いでくれる役割もある。
▲馬に匂いを嗅がせて安心してもらう(本編00:00〜)
タオルを用いた馴致は重要で、馬はヒラヒラしたタオルで触られることを怖がるので、慣れさせておく必要がある。牧場によっては、当歳などの早い時期からタオルで身体を拭き、既にクリアしている場合もあるようだ。
このタオルを使って行う馴致に、パッティングというものがある。
これは、馬が触られることを嫌う場所(尻、腹、背中など)に“パタパタ”とタオルを叩きつけるもので、ロンジングの際に用いる調馬策(長い曳手)が腹などに触れること、鞍などを乗せられることをスムーズに受け入れられるようにするほか、人の起こしたアクションに対して、「怖くないんだ」「害は無いんだ」と信頼をしてもらう目的がある。
腹帯もいきなり締める訳ではなく、前段階としてストラップというベルト状の装備を用い、腹帯を締める際の圧迫に耐性を付けてもらうことが一般的だ。
また、ロンジング(ランジングともいう)も重要なステップのひとつである。ロンギ場とは周囲を高い壁に囲まれた円状の馬場であり、基本動作や騎乗などの乗り慣らしを行う施設。ロンジングとは、ロンギ場で人の発する声によって“進む”、“止まる”など、馬が指示通りに動くように教える調教のことである。
これらすべてをクリアした後、ようやく、“ウマ”は鞍を乗せられるようになる。
▲ロンジングの様子(本編01:25〜)
人を乗せるまでに
「鞍を乗せられるようになったら、調馬策(ちょうばさく)を2本用いるドライビングを行います。
これは口向きをつくる練習で、後ろから人が付いて、右、左、前進、後退などができるようにします」
▲調馬策(上)と、2本用いた“ダブルレーン”の様子(下)(提供:レイクヴィラファーム)
調馬策1本でのロンジングによって、常歩や速歩、停止などを一通りできるようになった“ウマ”に、次は、2本の調馬策を用いたダブルレーンを行う。さらにそれにも慣れてくると、次は人が後ろへと回って行うドライビングへと移行する。ドライビングは、ハミ受け(手綱からの指示を受け入れる姿勢)を教える目的があるほか、人が乗る際には顔の後ろ側から手綱を握るため、その位置関係での指示を受け入れる練習にもなる。
このドライビングをクリアすると、いよいよ人を乗せてのトレーニングが始まるが、これにも前段階としての馴致が存在するようだ。
「昨日まで放牧して遊んでいた馬たちが、急に人を乗せられるわけで、まず背中に重さを感じたことが無いわけです。
なので馬房で人が腹ばいになって乗ったりして、様子を見ながら跨っていくという形になります」
なお、腹ばいで乗る前には鞍へのパッティングや、馬の横でジャンプをするなどして、いきなり飛びついて驚かないように馬を慣らしておくことも大切だという。その後、馬房内で跨っても問題が無ければ、次はロンギ場へと移動し、左回り、右回りでの常歩、速歩、駆歩、停止といった騎乗馴致へと移行していく。
▲ジャンプ、パッティングの様子(本編02:04〜)
馬の状態を“見極める“
ここまで、ハミ馴致からロンギ場での騎乗馴致と様々なトレーニングを行ってきたが、一般的にはどの程度の期間でこれらをクリアすることができるのだろうか。
「馬にもよりますが、大体2週間くらいだと思います。
ただ、一番大変なのは怖がりな子で、馬によっては2か月かかる子もいます。そこで焦ってしまうと今度は病んでしまうかもしれませんので、決して無理はせずに、同じことを毎日繰り返しながら、少しずつ進めていくんです。
一度に長い時間する必要はないので、『腹帯ができたらOK!』、『鞍付けができたらOK!』という感じで、短いゴールを決めて行いますね」
できないことを、「やれ!」と言われて嫌になってしまうのは、人の子とて同じこと。できなければ一歩下がって再度慣らしていき、個々に合わせたペースで進めることが肝要なのである。
「初めて経験する負荷に対して、怖がっている子もいるわけです。
逆に反抗して、人より上に立とうとする馬もいるので、その見極めがとても大切ですね。反抗する馬は牡馬に多いですが、それは人が上に立ってコントロールしなければいけません」
馬が怖がって「嫌だ!」と言っているのか、反抗して「嫌だ!」と言っているのか──。耳を絞っていたり、目を見開いていたり、細かな表情の変化や筋肉の緊張といった、“何かしらのサイン“を感じ取ることも馴致を担当するスタッフの“職人技“である。
また、気が付くだけでなく、褒めることも大切なことのひとつだという。
「怒ることもありますが、やっぱりできた時に褒めることが大事かな。ポンポンッと愛撫してあげたりですね。
海外へ行くと、馬ができた時にはすごく褒めますが、日本人はリアクションが小さいので、本当はもっと褒めてあげても良いかもしれませんね」
(了)
取材協力: 下河辺 隆行
有限会社 下河辺牧場
取材・文:片川 晴喜
デザイン:椎葉 権成
協力:緒方 きしん
写真提供:株式会社 レイクヴィラファーム
監修:平林 健一
著作:Creem Pan
【記事監修】引退馬問題専門メディアサイト