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【武豊騎手4500勝特集 #1】川田将雅騎手が語る“忘れられない”1日「本当の凄さは近づけば近づくほど実感できる」

  • 2024年06月13日(木) 18時01分
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▲川田将雅騎手が武豊騎手との出会いや凄さを証言(撮影:下野雄規)


先日JRA通算4500勝を達成した武豊騎手。netkeibaでは前人未到の大記録を記念して、レジェンドを知る人物たちにインタビューを行いました。

1人目は先日のメモリアルセレモニーでプラカードを掲げた川田将雅騎手です。佐賀競馬場での出会いから、デビュー3年目にかけられた印象的な言葉など、鮮烈なエピソードがたっぷり。競馬界における“武豊”の存在についても伺いました──。
(取材・構成=不破由妃子)

武豊騎手が初めて佐賀に来た日「あのときの父の顔はすごく輝いていた」


──武豊騎手の「4500勝達成」を記念した特集ですが、そういえば、川田さんから武さんにまつわるエピソードを聞いたことがないなと思いまして。

川田 僕が“武豊”を語るなんておこがましいので、今までできるだけ語らずにきたんですけどね。(福永)祐一さんが調教師になったので、ついに逃げられなくなったなと思ってます(笑)。

──「語らずにきた」ということは、言い換えれば、語れることがあるということ。非常に興味深いです。日本を代表する騎手となった今、生きるレジェンドの姿はどう映るのか、川田さんにとってどういう存在なのか、過去のエピソードなども含めて掘り下げていきたいと思っています。川田さんは、物心がついたときから騎手を目指していたとのことですが、武豊騎手にまつわる一番古い記憶というと?

川田 まつわるという意味では、オグリキャップですかね。5歳くらいだったかな、有馬記念をテレビで見た記憶はなんとなく残ってる。“武豊”としてハッキリというより、漠然と覚えてる、くらいの感じです。

──佐賀競馬場で育ち、騎手を目指すなかで、「中央競馬に武豊というすごい騎手がいる」というのを知ったのはいつ頃ですか?

川田 明確な時期は覚えていませんが、子供の頃から知ってましたよ。ただ、憧れるとかそういう対象ではなく、雲の上の人としてね。当時の僕にとって、“武豊”は完全にテレビのなかの人でしたから。そんな豊さんと初めて接点を持ったのは、1999年の佐賀記念の日でした。

──1999年といえば、川田少年は中学2年生。武さんは30歳で、佐賀記念をスノーエンデバーで勝ったんですよね。

川田 そのスノーエンデバーがね、佐賀記念までの1週間、父(川田孝好調教師)の厩舎に滞在していたんですよ。

──そんなご縁があったとは!

川田 馬主さんの縁でそういう運びになりまして。父の厩舎の馬房を森厩舎にひとつ明け渡して、スノーエンデバーはそこでレースまでの1週間を過ごしていました。しかも、僕の記憶が正しければ、豊さんはその日が佐賀競馬場での初騎乗で、佐賀記念の前に仲介役となった馬主さんの馬に乗ってくれることになった。

──川田孝好厩舎の管理馬にエキストラ騎乗したということですか?

川田 そうです。豊さん、そのレースをしっかり勝ってくれました。それで、レース後の勝ち馬写真に僕も一緒に写って。豊さんと接点を持ったのは、そのときが初めてでしたね。たぶん豊さんは覚えていないでしょうけど(笑)。

──自己紹介をしたりなど、会話も交わされたんですか?

川田 「ありがとうございました」くらいは言ったはずですけど…。正直、あんまり覚えてないんですよね。子供でしたから、「うわぁ、本物の武豊だ!」と舞い上がっていたこともありますし、なにしろ初めて佐賀競馬場に“武豊”がくるということで、競馬場全体が異様な盛り上がりを見せていて、そっちのほうの印象が強烈で。

 佐賀競馬場のスタンドが人の頭で埋め尽くされて、真っ黒でしたからね。あんなにお客さんが入っている佐賀競馬場を初めて見ました。周りの大人たちの動き、醸し出される雰囲気もいつもとはまったく違うし、とにかく僕にとってあの日の佐賀競馬場は、完全に非日常だった。

──川田さんがよく知る佐賀競馬場を、一瞬にして非日常に変えたのが“武豊”。日本の競馬界において、この人がどういう存在なのか。騎手を志す川田少年の心に嫌というほど刻み込まれた1日だったんでしょうね。

川田 もうひとつ、忘れられないことがあって。

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