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無課金おじさんとキャンセルカルチャー

  • 2024年08月15日(木) 12時00分
 パリ五輪が閉幕した。日本の金メダルは参加国中3位の20個。さらに銀メダル12個、銅メダル13個の計45個となり、金メダルの数もメダル総数も、海外で行われた五輪での最多記録を更新した。

 競馬ファンにとっても大きなニュースとなったのは、総合馬術団体での「初老ジャパン」による銅メダルだった。馬術では実に92年ぶりのメダル。同じく馬が出場した近代五種では、佐藤大宗選手が銀メダルを獲得。日本人がこの競技でメダルを獲得するのは史上初という快挙であった。

 しかし、いいことばかりではなかった。柔道やバスケットボール、サッカー、ブレイキンなどでは審判の偏った判定が、そして男子400mリレーの組合せや女子スポーツクライミングのルート設定などが問題視された。さらに、選手に対する誹謗中傷なども見受けられた。

 オリンピックのような大きなイベントが行われると、当然、プラスとマイナス両方の効果が表れる。それが最終的にプラマイゼロになるとしたら、やらなくてもよかったじゃないかと思う人もいるだろうし、興奮して感動できたぶん、やってくれてよかったと考える人もいるだろう。私を含め、ギャンブルをやる人はだいたい後者だと思う。損得だけで物事を判断する人は、そもそもこのコラムを読む気にもならないはずだ。

 さて、前にも触れた、パリ五輪関連で流行語大賞の候補になるかもしれない言葉の本命は、やはり「初老ジャパン」だろう。対抗は、射撃混合エアピストルで銀メダルを獲得したユスフ・ディケチュ選手を指す「無課金おじさん」か。ゴーグルやヘッドホンなどをつけず、ズボンのポケットに片手を入れて撃つ姿はまさにヒットマンで、ものすごくインパクトがあった。家人によると、私もスウェットズボンのポケットに手を入れたまま寝ていることがあるらしい。そこだけは「無課金おじさん」とキャラが被るようだ。

 言葉といえば、女子やり投げで金メダルを獲った北口榛花選手が、「ひとつ心残りがあるとするなら、名言を残せなかった」と話していた。競技の合間に見せる姿や、取材に応じる表情などから人柄のよさが伝わってくる彼女は、旭川東高校の出身なのだという。丸田恭介騎手もそうだ。私も北海道出身だからわかるのだが、「道内有数の進学校」という言葉だけでは表現し切れない、優秀な生徒の集まる高校だ。北口選手は競泳とバドミントンでも全国トップクラスだったという。その運動神経もさることながら、進路の選び方を見ると、いろいろな意味で、考える能力の高い人であることがわかる。

 北海道出身の女性ということでは、夏場の男性の体臭が苦手だなどと旧ツイッターのXに投稿した女性アナウンサーが、所属事務所との契約を解除されたこともニュースになった。私は彼女の名前も顔も知らなかった。プロフィールを見ると、道内での仕事が中心だったようだ。初めて全国区のニュースになったのがこれというのは、自業自得とはいえ、ちょっと気の毒に思う。確かに、傷つく人がいるのに、不特定多数の目に触れるSNSで文字にしたのはよくない。また、彼女が、汗をかくのは当たり前の建設業界でもマナー講師をしていたことや、すぐには謝罪しなかったこともまずかった。だが、特定の個人を匿名で中傷することに比べたら、卑劣ではないし、悪質でもなかったと、少なくとも私は思う。いわゆる「失言」として、きちんと謝罪したうえで、何らかの叱責や謹慎処分が科されて(フリーランスだから、本来それもおかしいのだが)おしまい──でもよかったのではないか。

 数年前なら、いや、10年前なら、おそらくそうなっていた。どうしてこんなにコンプライアンスに厳しい世の中になってしまったのだろう。「文春砲」などのメディアでつるし上げられた有名人を、SNSで匿名の正義感たちが束になって攻撃する「集団リンチ」を日常的に繰り返しているうちに、これが当たり前の感覚になってしまったのか。

 自分とは何の関わりも利害関係もない相手に対しても、怒りたがり、罰したがり、場合によっては悲しみたがる匿名の人間が多すぎる。そうして誰かを攻撃して社会的に排斥しようとする傾向を「キャンセルカルチャー」と言うらしい。最近では、SNSでの不適切な投稿で芸能活動を休止することになったタレントのフワちゃんも「キャンセルされた」ということになるようだ。私もひどい失言をしたら、キャンセルされてしまうのだろうか。

 この息苦しさの根底にあるのは匿名性の問題だ。意見を言うのは自由だが、それは責任を伴うことを前提とした自由である。たとえ何らかの過ちを犯した相手であっても、「正論」や「意見」をぶつけるにあたり、匿名で名誉を毀損したり侮辱したりする側の違法性だけを容認するのはおかしい。そちらにもきっちり責任を取らせるべきだ。

 世代によるのかもしれないが、私が子供のころに「匿名」という言葉を知ったのは、テレビやラジオに面白おかしい投稿をする人が「匿名希望」として使っていたからだ。メディアに出るのは恥ずかしいから、あるいは、身内や知人の失敗談で笑いを取った場合は迷惑がかかるから、といった理由で匿名にしていたのが大半だった。

 それが今は、他人を攻撃するための隠れ蓑になってしまった。匿名で他人を追い詰める人間がいなくなるところまで社会が成熟していないのだから、何らかの法規制が必要なのかもしれない。

 最後に、突然の訃報について。角田大河騎手が亡くなったことが、先週の土曜日、8月10日にJRAから発表された。21歳だった。2022年にデビューし、今年が3年目。重賞初制覇となった昨年の毎日杯を含め、JRA通算90勝をマークしていた。

 将来、確実にトップジョッキーになると思われていただけに、若くして世を去ったのは残念だし、悲しい。父の角田晃一調教師をはじめとする遺族や、師匠の石橋守調教師ら関係者の心痛はいかばかりか。

 安らかに眠ってほしい。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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