この稿がアップされる10月24日(木)、スポーツ誌「Number」の競馬特集号が発売される。テーマは「神騎乗」。
私は、M.デムーロ騎手がヴィクトワールピサで制した2011年のドバイワールドカップを振り返るページと、川田将雅騎手のインタビューページを担当した。
M.デムーロ騎手は、東日本大震災に日本中が打ちひしがれたことに心を痛めていた。その彼が発災時どこにいて、どう感じたのか、そして、どんな思いでドバイワールドCに騎乗したのかなどを聞いた。
彼は、震災の翌年、短期免許で来日したとき、福島県の相馬地方を訪ね、相馬野馬追の騎馬武者のスタイルで馬に跨った。日本人でも原発事故の影響を過剰に気にして訪問をためらう者もいたのに、進んで被災地に足を運び、現地の人馬と交流を深めた。そのとき撮って、スマホに保存してある写真も見せてもらった。まだ津波の爪痕が生々しく残っていた時期だ。写真を私たちに見せながら「つらかった」と言った彼は、真のサムライだと心から思った。
川田将雅騎手に私が1時間以上のロングインタビューをしたのは今回が確か6回目だ。以前「優駿」にも書いたのだが、トレセンや競馬場での囲み取材を含めて、彼が鼻声だったり、ゴホゴホ咳をしていたりしたことは一度もない。戦うからには、つねに同じコンディションを保つ、プロの姿勢だ。そんな彼だから、話すことにも気持ちいいくらいブレがない。インタビューでの言葉のキャッチボールも、原稿のやり取りも、彼が相手だとすべてが真剣勝負になる。
彼は、「人馬一体」という表現を絶対に用いない。というより、そうした感覚で馬と接してはいない。馬と一体になるという概念自体が彼にはないのだ。彼にとって、馬は自分の手足の延長として動かすものではなく、コミュニケーションを取りながら、乗り手の意思を伝えたうえで操縦するものなのだろう。あくまでも勝ったのは馬で、自分は馬とは別の個体なのだから、勝ってもガッツポーズが出てこないのだ。
そんな彼と話していて、以前、相馬野馬追取材で親しくなった、甲冑競馬の名手「テル君」こと只野晃章(ただの・てるあき)武者が、フェイスブックの自分のページに「人馬二体」と書いていたことがあったのを思い出した。テル君にとっても、馬は一体化する存在ではないようだ。相馬地方のように、自宅で馬を飼育していたり、相馬野馬追関連の行事でしょっちゅう街中で馬を見かけたりと、馬が身近な存在だと、特定の馬と喜びを共有するなど一体化しやすくなる。そうした環境だからこそ、どんな馬に乗っても勝つために、馬はやり取りする相手であり、コントロールする対象だと「人馬二体」を意識するようにしているのだろう。
先週土曜日の東京第3レースのゴール後、川田騎手の騎乗馬が躓いて転倒し、頭から落馬したときはヒヤッとした。馬が左前脚を骨折したかに見えたが無事で、川田騎手も、その日と翌日の騎乗を見合わせたものの、今週から復帰できるようで、よかった。インスタグラムで、後続馬に大きな迷惑をかけることなく終わって感謝している、と、自分以外のことにも言及しているのも彼らしい。
天皇賞(秋)で、リバティアイランドをどうゴールまで導くか、楽しみだ。
今週月曜日、「優駿」の取材で、栃木県の牧場を訪ねた。ずっと行きたいと思っていた名門だ。かつて、メジロムサシが1971年の天皇賞(春)、ナスノチグサが1973年のオークス、ナスノコトブキが1966年、ホリスキーが1982年の菊花賞を勝つなど、栃木産の競走馬がターフを賑わせた時代もあった。
また、2000年代までは、宇都宮と足利に地方の競馬場があった。
ところが、今、「栃木と競馬」というと、よく知られた施設は、下野市のJRA競走馬総合研究所と、那須塩原市の地方競馬教養センターくらいだろうか。これだけあれば十分なのかもしれないが、新幹線を使えば1時間強で行けてしまうアクセスのよさを実感すると、馬事文化の濃度が薄れてしまったことが、あらためて残念に思われる。
さっきから雨が降ったりやんだりしている。予報を見ると、金曜日と日曜日にも傘マークがついている。天皇賞(秋)当日、東京の芝コースはどんな状態になっているだろうか。重馬場になると、ソールオリエンスあたりも浮上してきそうだ。いずれにしても、好メンバーによる好レースを期待する。