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サステナビリティとは

  • 2025年01月09日(木) 12時00分
 今年1月3日の正午過ぎのことだった。

「私の正月は、昨日と今日のこの時間だけなんです」

 自宅マンションのエレベーターで1階へと降りながら、乗り合わせた住人が苦笑した。

 その人も、もうひとり乗ってきた住人も、私も家人も目指すところは同じ。ここから徒歩3分ほどの国道15号線の沿道で、箱根駅伝の復路10区を観戦するのだ。

 観戦ポイントに着いてすぐ、トップの青山学院大学の選手がかろやかに眼前を駆け抜けて行った。私の母校の早稲田大学は3位争いをしている。この10区は最終区なので、ランナーはみなアンカーだ。

 早稲田のアンカーは3年連続で菅野(かんの)雄太選手。つまり、私は3年連続、同じ場所から彼の名を叫ぶことになったわけだ。去年につづき区間5位の素晴らしい走りを見せた菅野選手は、一般入試で入った文武両道の男前で、今年卒業する。箱根駅伝中継のスポンサーにもなっているJRAにでも就職してくれないかと思っていたのだが、コンサルティング会社に内定しているとのこと。実業団とは別の形で競技をつづけていくようなので、今後も頑張ってほしい。

 箱根駅伝と、その少しあとに行われる東西の金杯が、私にとって一年の始まりを告げる主な行事になっている。

 もうひとつ、正月というと年賀状だが、今年はほんの少ししか来なかった。ここ数年「年賀状じまい」をする知人や会社が増え、今年で最後と書かれた賀状もあった。

 郵便料金の値上げや、メールやSNSが普及したことの影響で、元日に全国で配達された年賀状は去年を34パーセントも下回る4億9100万枚ほどだったという。ひとりあたり4枚ほどだ。

 そのぶんメールやSNSでの賀状が増えているのかというと、今年私に送られてきたのはメール3通とSNSのダイレクトメッセージ1通のみ。要は、ただやめた人が多くなっただけなのだ。

 賀状のやり取りだけの付き合いの人もいるのだが、こうなると、普段から付き合いのある人たちより、むしろ疎遠な人たちと互いに安否を確認する手段として存在しているようにも感じられる。

 正直、寂しいし、これでいいのか、と言いたい気もする。

 年賀状じまいをすると告げた個人や団体は、自分たちが出すのをやめるというだけで、受け取るぶんには構わない、というスタンスなのだろうか。それではまるで「俺からのアプローチはやめるけど、俺を好きになってくれるのはオッケーだよ」と言っているようなものなので、「出すのも遠慮してください」と言外に含めているのだろう。

 特に企業などの団体が年賀状をやめる理由のひとつにサステナビリティ(持続可能性)が挙げられている。が、それなら、紙の本を読む習慣をやめるのもサステナビリティにつながることになる。知性の放棄、文化の衰退である。製紙会社や印刷会社、製本会社などを「時代遅れの悪」とするつもりはないのだろうが、私は、サステナビリティという言葉が使われはじめたころからしっくり来ないものを感じていた。

 この流れで、馬券を買うときマークシートや使い捨ての鉛筆の消費を少なくしようとするのは理解できるが、紙に書くという作業が許されるからこそ馬券を買いつづけることができる人も多い。それも持続可能性、すなわちサステナビリティなのではないか。

 電車で新聞をひろげて読むオヤジが絶滅しかけているのは、スマホでネットのニュースを読むほうが便利だから、結果としてサステナビリティにつながっただけで、まずサステナビリティありきだったわけではない。

 情報伝達が速くなったからなのか、何かひとつ新しい流れができると、一気にそちら側に進んで極端な状況に陥ることが多くなった。

 電気自動車にしても、排気ガスを出さずにクリーンなのはわかるが、電気をつくるために化石燃料の使用は避けられないし、太陽光や風力で発電するにも、あの巨大な施設をつくるときのエネルギーはどうするのか。また、リチウムイオンバッテリーの生産やリサイクル、廃棄処分に伴う高額な費用や環境への負荷も考慮しなければならない。であるから、近いうちに電気自動車だけの生産に切り換えると宣言していたメーカーも、続々と目標を取り下げている。これは「自分の手元でムダがなく、綺麗だったらいい」という安直な考えが生んだ悲劇であり、喜劇だろう。

 とはいえ、自動車の生産はガソリンやハイブリッドなどに後戻りできるからまだいいが、取り返しのつかないものもある。

 ハンドルにもアクセルにもブレーキにも「ムダ」や「遊び」があるから、急激な操作にならず、感覚にフィットした、安全で快適な運転ができる。競馬というのは、ムダと遊びをレジャーという形にしたようなものだ。それに関してサステナビリティを追求しても別に構わないと思うが、私は、サステナビリティという考え方自体が、そのうち廃れると思っている。

 寺山修司ではないが、競馬が人生の比喩なのではなく、人生が競馬の比喩なのだとすると、人生の本髄はムダと遊びのなかにこそあると言えるのではないか。

 新年早々とりとめのない愚痴になってしまった。

 ということで、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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