11月12日にフランスのサンクルーで行われた、欧州における今季最後のG1戦「クリテリウム・ド・サンクルー」は、ドーバー海峡の両側で大きな話題を呼ぶことになった。勝ち馬が、ヘンリー・セシルの管理馬だったのである。
ヘンリー・セシルと言えば、70年代から90年代にかけて栄華を誇った、英国競馬史上でも指折りの大調教師である。弱冠33歳だった76年に初めて英国におけるトレーナーズ・リストのトップに立ち、以降90年までの15年間に9回もチャンピオントレーナーの座に就いたセシル師。85年のスリップアンカー、87年のリファレンスポイント、93年のコマンダーインチーフ、99年のオースと英国ダービー4勝。この他、英国オークス6勝、二千ギニー2勝、千ギニー6勝、セントレジャー3勝など、数々のビッグレースを制した、自他ともに認める名伯楽であった。90年を最後にリーディングの座からは遠ざかったが、それでも93年、96年、98年、99年が第2位、94年、97年が第3位と、90年代までは第一線のバリバリで活躍していたのであった。
ところが今世紀に入ると、状況は一変した。2000年に、ビートホロウでパリ大賞典を制したのを最後に、ぴたりとG1勝ちが途絶えてしまったのである。01年には、リーディングのトップ10から脱落して第12位。転がり始めるとどんどん加速するのが下り坂で、02年第37位、03年第41位、04年第66位ときて、昨年(05年)は第97位まで順位が急落していた。05年のセシル厩舎の年間収得賞金は、わずか14万4980ポンド(約3200万円)。好調期の最後の年となった99年の年間収得賞金が244万ポンドだったから、わずか6年の間に厩舎の勢力が20分の1近くまで縮小してしまったことになる。
もっとも凋落への兆しは、既に90年代半ばから見えていて、その最も顕著なものが、95年のシーズン終了時に起った、シェイク・モハメドとの決別だった。シェイク所有の期待の2歳馬マークオヴエスティームの、故障の報告を迅速に行わなかったことをきっかけにして、セシルの下で数々の大レースを制したきたモメハド殿下が、所有馬全てを引き上げるという事件があったのである。
それでも90年代は何とか好成績を維持していたが、今世紀に入って持ちこたえられなくなると、これまでの主要クライアントの多くが離れていき、全盛期には200頭以上いた管理馬が、現在では60頭まで落ち込んでいたのだった。
セシルというのは、良く言えば「天才肌」、別の見方をすれば「変人」で、大レースのある日の競馬場に、もう何年も着古したようなよれよれのスーツで来てしまうところのある人物である。私生活でもトラブルが絶えず、主戦契約を結んでいたキアラン・ファーロン騎手とセシル夫人の不倫疑惑が、英国のタブロイド誌上を賑わせたこともあった。
ヘンリー・セシルはこのまま、競馬シーンから消え去ってしまうのではないか。そんな声も囁かれていたのだが、天才は死んではいなかったことを実証したのが、12日のクリテリウム・ド・サンクルーだった。管理する牝馬パッセイジオヴタイム(父ダンシリ)でこのレースを制覇。6年振りのG1を手中にしたのである。
実は今年8月、管理馬マルチディメンショナルでドーヴィルのG2ギョームドルナーノ賞を制し、02年以来4年振りの重賞制覇を果たしていたから、厩舎そのものは今年後半に入って上昇気運にはあったようだ。
ブックメーカーのラドブロークスが、来季のオークスへ向けて11倍のオッズを掲げたパッセイジオヴタイム。セシルに久々のクラシック制覇をもたらし、名門の完全復活がなるかどうか、おおいに注目されるところだ。