◇獣医師記者・若原隆宏の「競馬は科学だ」
先週、2頭のよく知られたサラブレッドが相次いで急死した。19年エルムSを勝ったモズアトラクションと、インティなどを送り出した種牡馬ケイムホーム。どちらも死因が「急性腹症」と伝えられている。安らかに眠ってほしいと願うが、死ぬ間際はさぞかし苦しかったろうと思う。
急激に発症した疝痛(せんつう)の中で、緊急手術を含む迅速な対応を要する腹部疾患を広く「急性腹症」という。馬だけでなく、人や犬、猫などでも使う言葉だ。人にも共通するのに一般になじみがないのは、それぞれの原因特定前の段階で、病態を表す言葉だからだろう。
適切な処置には、原因究明(診断)が必要だ。例えば腸閉塞(へいそく)などの腸の不具合、胆のう炎、膵炎(すいえん)など消化系臓器の不具合、腹部大動脈瘤(りゅう)の破裂ほか、考えられる原因は多岐にわたる。人ではほとんどのケースで腹痛の原因が特定される。患者やその家族には「腸閉塞」だとか「虫垂炎による腹膜炎」といった診断が伝えられ、腹痛の原因が分からない段階の呼称である「急性腹症」が伝えられることはまずない。
血圧低下などを伴うショック症状もしばしば引き起こし、深刻な事態に結び付くことも少なくない。「多くの場合、開ければ原因はわかる。考えるのは開腹してから」という言い方をする先生もいる。それだけ時間との闘いになる場合が多いのが急性腹症だ。
発症早期に診断までつけば、米国では馬の急性腹症は約9割が助かるとされている。だから急ぐ。けれど日本の馬の場合は、大前提である「発症早期に診断」というところが容易ではない。馬専門の獣医師の数も、そうしたレベルを想定すると足りているとはとても言えない。新聞社に就職した記者が言えることでもないのかもしれないが、大動物に進む獣医師がそもそも圧倒的少数だ。
もちろん、今回の2頭に関して現場ではなし得る限りの最善が尽くされたと確信する。一方で、社会構造の問題として、彼らが浮かばれるために、馬専門獣医師が、数的に充実した世の中になってほしいと願う。
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