「競馬の神様」と呼ばれた大川慶次郎さん(1929~1999)は、戦時下、無観客で行われた昭和19(1944)年の日本ダービーを観戦している。
無観客といっても、ごく少数の関係者は入場しており、大川さんはその一人だった。日本ダービーが始まった当初から、馬主兼生産者(オーナー・ブリーダー)として、日本競馬の盛り上げに貢献してきた父・大川義雄に連れられて入場したのである。ときに15歳。
自著『大川慶次郎回想録/まっすぐ競馬道』(ラジオたんぱ)の中で、こうお書きになっている。
<昭和19年6月18日の第13回日本ダービー。東京競馬場でそれを観戦したのは、関係者と軍人があわせて約200人だけ。私も父に連れられて、それを見にいきました。いろんな競馬資料にあたっても、この時のナマの観戦記にお眼にかかることはほとんどありませんが、それはやはりこの時の人数の少なさが、その最も大きな理由でしょう。しかし馬券は売られていなくても、またスタンドが閑散としていても、やはりこれも立派な競馬であり、日本ダービーでした>
この日が、目の覚めるような快晴であったこと。9着に敗れたトキノチカヒの馬主である作家の菊池寛が、和装にステッキといういつもの姿で、レース後、スタンドに腰をおろしつつ「ふーっ」と大きく息を吐いたことなどを覚えているという。勝ったのはカイソウ。5馬身差の圧勝だった。
<カイソウがゴールに入線した瞬間、戦前の東京競馬のすべてが終わったのでした。翌年8月15日の敗戦を経て、さらにその翌年の昭和21年10月に競馬が再開されるまで、府中のコースには馬はおらず、スタンドは無人となり、競馬場のすべては暗黒の眠りについてしまいました。内馬場はささやかな食料増産のためのイモ畑になりました>
大川さんによれば、昭和21年8月15日、その畑でとれたナスに箸をさして馬の人形を作り、馬場に置いて、「早く競馬が再開できますように」と手のひらを合わせていた競馬会の職員の姿があったという。月遅れの盆になるとその姿を思い出すと話されていた。(競馬コラムニスト)
- ネタ元のURL
- https://www.sankei.com/article/20210813-IYSC5SCIMJLKPNWOQBBNLMMAMA/