日高振興局主催の馬文化出前教室「日高の馬と産業について学ぼう」が20日、日高町の富川小学校で開かれ、5年生52人が地域の産業・競走馬のルーツについて学んだ。
来校したのは地域創生部地域政策課の山岸義明係長、河村美奈さんと産業振興部農務課の石戸谷真治さんの3人。
テーマは「日高の馬の歴史」と「馬の種類と特徴」。
最初の講師は河村さん。「日高に馬が登場したのは約250年前。その後、馬が増えたのは日高が牧場を作るのに良い環境だったから。日高の馬が競走馬になれたのは競走馬の基礎となる研究がたくさん行われていたから」と話を切り出し、クイズも交えて牧場の歴史について分りやすく説明した。
今の様似町にある「等澍院(とうじゅいん)」の僧侶・慈真(じしん)が病気やケガをした馬を預かり手当てをして24頭まで増やした。このうちの14頭で牧場を作る計画を立ててシャマニ牧(まき=牧場)を作ったのが日高の牧場の始まりといわれている。そこは牧場として不向きの場所だったため、翌年、元浦川(今の浦河町荻伏)に移転して明治元年には500頭までに増やした。
当時の馬の役割は農機具や馬車を引く力仕事。今までの小型馬を大型化する必要性に迫られていた。飼育法など技術の導入を積極的に進めたのは開拓史次官の黒田清隆、明治3年のことだった。
黒田はその後、日高に大きな牧場を作った。静内、新冠、沙流地方の約7万
ヘクタールに牧場を開いて日高地方にばらばらにいた野生の馬2262頭を集めて放牧を始めた。
この牧場が天皇家が所有する「新冠御料牧場」の始まり。明治5年のこと。
明治40年に現・浦河町に日高種馬牧場が新たに設置された。当時、日清戦争や日露戦争など大きな戦争が続き軍馬の需要が急増。外国との戦いで日本軍の馬が移動や騎馬戦に劣っていることが判明、そこで強い種馬作るのを作るのが日高種馬牧場の役目。
この牧場の誕生は馬の産業を飛躍的に発展させた。この牧場を開くに当たり力を注いだのが当時の西忠義浦河支庁長だ。
昭和29年「
中央競馬会」が設立。その後の日高は一気に日本一の競走馬の産地となった。
「馬は日高の宝物」と話す河村さん。児童たちは馬文化物語の一部始終を目を輝かせて聞き入っていた。
日高報知新聞社