豪華メンバーが顔をそろえた昨年のマイルCS。最後の直線の攻防は非常に見ごたえがあった。先に抜け出した
アドマイヤマーズを盾にして、連覇を狙う福永&
インディチャンプが
グランアレグリアの進路を絞る。それでも、名手・ルメールは冷静だった。ひと呼吸置いてセーフティーな外に持ち出すと、きれいに抜け出してV。マイル女王に新たな勲章をもたらした。
実力馬が人気通りに力を示したあの一戦。穴党にとって唯一、シビれたシーンは直線でインから迫った
スカーレットカラーの奮闘ではないか。単勝187・8倍の13番人気。最後は力及ばず4着に敗れたが、それでも彼女の末脚を信じたファンは、手に汗握ったことだろう。
何よりも彼女の一番の信者は、調教担当の喜多亮介助手(
高橋亮厩舎)だ。カラーの背には、デビュー6戦目の
チューリップ賞(7着)からまたがってきた。夏の段階で既にラストランと決まっていたあのマイルCSを振り返り、「迷い続けた競走馬人生でしたね。それでも、最後だけは迷わずに戦うことができました」とすがすがしい表情を見せた。
迷いとは何か?まずは馬体重だ。438キロでデビューしたカラーは、引退時には490キロにまで成長した。その道中の増減の激しさが陣営の迷いを表している。「環境が違う札幌では全くカイバを食べなかったので、2年続けて数字が減った
クイーンSは参考外ですが、
有馬記念は距離を考えて意識的に絞りました。結果的に、あの調整は裏目に出ましたね。いろいろと試行錯誤しましたが、最終的にカラーの場合は“体重じゃない”ってことに気づきました。ラストランの490キロは、あの馬のベストだったと思います」。
そして距離。芝1400メートルでデビューしたが、4歳暮れに
有馬記念(芝2500メートル)へ挑戦した。「距離はある程度こなせそうな感じはしました。結果として、さすがに
有馬記念は長かったけど、
天皇賞・秋の2000メートルはこなせると思いました。でも、ラストは止まってしまいましたね。やはりマイルがベストでした」。
快進撃が始まったのは、4歳夏の
パールSから。岩田康とのコンビ再結成が転機となり、潜在能力が引き出された。喜多の胸を熱くしたのはラストイヤーの夏。「
ヴィクトリアマイルの時、岩田さんはケガで乗れなくなったのですが、手綱を託された
石橋脩さんに毎日電話を入れて、馬の特徴を伝えてくれていたそうです。有り難かったですね。15着に敗れはしましたが、あれは石橋さんの騎乗がどうこうではありません。テン乗りで結果を出すのはすごく難しい馬ですし、ましてG1では仕方がありません」。
次戦の
クイーンSも思い出深い一戦だ。1番人気の支持を受けたが、直線内で包まれて行き場を失い、脚を余して3着に敗れた。「レース後の検量室で、岩田さんは人目もはばからず涙されていました。僕自身も悔しかったし、みんな岩田さんと同じ思いでカラーに携わっていました。もっと勝てる、もっとできる、と思ってやっていましたが、なかなか思うようにはいきませんでした」。
結果が出なければ、気持ちに余裕がなくなり、チャレンジをためらうこともある。それでも前を向いて戦えたのは、前田幸治オーナーの理解があったからこそだと喜多は言う。「最後の秋も、普通なら
府中牝馬Sか
富士Sを使ってマイルCSへ向かうのが
セオリーですが、オーナーはカラーの力を信じてくれました。無難に行けば、G3を勝つことはできたでしょう。でも僕らの思いは違いましたから。
天皇賞・秋に挑む際は、岩田さんも他の騎乗依頼を全部断ってカラーに乗るといってくれた。強いところで勝負できたのは、オーナーのご理解のおかげです」。恐らく、会員制クラブの馬では簡単には勝負をさせてもらえないだろう。喜多が言う“迷わず”の意味に歩み寄れた気がした。
陣営自らがハードルを上げた分、当然のように目標達成率は下がった。結果として、カラーのタイトル獲得は19年
府中牝馬Sの1つだけだ。それでも、陣営はあえて高みを目指した。そしてラストランは、喜多にとって納得のいくレースとなった。「“G3、G2止まりの馬”と思われていたと思いますが、かみ合えばG1でもやれると信じていました。いろんな経験を重ねて、最後の集大成をマイルCSに定めることにも迷いはなかったです。あれだけの強豪相手に、内から一瞬、先頭に躍り出た時には、カラーの意地を見ることができました。比較的外が伸びる馬場状態でしたが、岩田さんもあえてコースロスのないインを突いて勝負してくれた。最高の競馬でした。最後に全力を出し切ってくれました」。
馬券を買って応援していたファンの中には痛恨の4着となった方もおられるだろう。それでも、喜多の話を聞く限り、ラストランのカラーは全能力を出し切った。あれ以上を望むのは酷であり、大健闘をたたえるべきだと私は思う。「なかなかああいう脚質で、しまいドカンとはじける馬にはお目にかかれません。今では珍しい個性派タイプ。その分、答えを出すのが難しかったです。すごく勉強になりましたね。今思えば、もっとたくさん勝てたと思うし、もっとファンに愛された馬になっていたと思う。すごく悔いが残るし、あの時の経験を今後に生かさなければならないと思っています」。
ラストランを終えたカラーは、年越しを待たずして
コントレイルの半姉
アナスタシオとともに米国へ渡り、繁殖生活へ。今は米3冠馬
アメリカンファラオの子をおなかに宿しているそうだ。
あの戦いから、はや一年-。人も馬も、それぞれが新たな時を刻んでいるが、あの時の一体感は大きな経験となって生き続ける。
高橋亮厩舎の屋台骨を支えた彼女のスピリッツは、きっと後世に受け継がれていくことだろう。 (デイリースポーツ・松浦孝司)※敬称略
提供:デイリースポーツ