1990年11月4日。
菊花賞は雨、重馬場。1番人気は重馬場の
京都新聞杯を制した
メジロライアン。メジロ牧場当代のエースとしてクラシック制覇を期待されたが、
皐月賞3着、ダービー2着。今度こその意気込みで臨んでいた。春はダービーで3着、秋復帰初戦の
セントライト記念を勝った
ホワイトストーンが2番人気。この関東馬2頭が「単枠指定(※文末に注あり)」だった。
不良馬場の
弥生賞、重馬場の前走を勝った
メジロライアンは道悪巧者として知られ、単勝2・2倍。中団から早めに押し上げる得意の戦法を取ったが、直線を向いてのラストスパートでじりじりとしか伸びない。
もがく1番人気馬を尻目に、好位追走から3角で2番手に付けていたのが同冠名の
メジロマックイーン。なお同じ「メジロ」だが、ライアンは馬主メジロ牧場で白地、緑一本輪、袖緑縦縞の勝負服。
マックイーンは馬主メジロ商事で白地、緑一本輪、袖緑の勝負服。この
菊花賞で、メジロ総帥の北野ミヤさんは「ライアンを勝たせたい」と期待していたというが、果たして菊の大輪を咲かせたのは4番人気
メジロマックイーンの方だった。当時の
菊花賞は今と違って枯れ芝。道悪で前の馬が蹴って飛ぶ根付きの芝で芦毛の馬体を泥だらけにしながら走る。鞍上は88年デビューで、ここまで通算43勝、クラシック初騎乗の内田浩一。
マックイーンを管理した池江泰郎厩舎所属であることから、その背を預けられていた。彼の左ムチ連打に
マックイーンが応えて、インをさばいて伸びてくる
ホワイトストーンの末脚をしのいだ。
メジロライアンは
ホワイトストーンから1馬身半差の3着まで。
勝った内田浩一は検量に引き上げてくる際、
マックイーンの馬上で涙を浮かべ、拳を突き上げた。
「本当にうれしかった。この馬で悔しい思いをしていたので、(涙を)こらえ切れなかったです」
その悔しい思いとは、前走の嵐山S。当時は
菊花賞と同舞台の準オープンが、
京都新聞杯の前日に施行されていた。内田浩一騎乗の
メジロマックイーンは1番人気で挑んだが、9頭立ての少頭数にもかかわらず不利をさばけず2着だった。
「あれは勝っていたレースですから。今日は(前走のように)包まれないことだけ気をつけました。馬が強いのは分かっていましたし、具合もいいので信じていました。直線でライアンの影が見えたけど、絶対に抜かれないと思いました」
実は嵐山S2着の後、
菊花賞で若い内田浩一から別の騎手への乗り替わりも取りざたされた。しかし池江泰郎調教師は「騎手なら一度は通らなければならない道」として騎乗継続を決断。師匠の思いに弟子が応えた。
ただ、内田浩一がレースで
マックイーンに騎乗したのはこの
菊花賞が最後。メジロの悲願「父系3代天皇賞制覇」のため、
マックイーンの鞍上は次のレースから
武豊にゆだねられた。
武豊と共に
マックイーンは
天皇賞・春連覇など一時代を築くが、出世の契機でありG1初勝利の
菊花賞には、うるわしき師弟の物語があった。
※単枠指定 90年当時はまだ馬番連勝(馬連)の発売がなく、馬券は単複と枠連のみ。人気が予想される馬を1頭の枠に固定することで、その馬が取り消しや除外になった場合、枠連の馬券を返還するために設けられた制度(同枠馬がいる場合、枠連の返還はできないため)。
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