97年第2回
NHKマイルC。当時の競馬界を取り巻く状況が分からないと、いま振り返ると奇異に思える事象がいくつかある。
今でこそクラシックと
NHKマイルCを分けるのは距離適性だが、当時は違う。外国産馬にクラシックの出走権がなかった。一方で、外国産馬の輸入は盛んで、つまり3歳春に目標を定めづらい外国産馬が多くいた。
NHKマイルCは当初「マル外ダービー」の異名がうたわれた通り、外国産馬の3歳春における
マイルストーンの役割を果たすことになった。前年の第1回は18頭中14頭、1〜8着が外国産馬。第2回も18頭中12頭、11番人気までの馬のうち内国産馬は3番人気
マイネルマックスのみ。
そして、この年の外国産馬No・1と目されたのが牝馬
シーキングザパール。ここまで7戦5勝、重賞4勝。前年の阪神3歳牝馬Sは4着に敗れたものの、年が明けて
シンザン記念、
フラワーC、ニュージーランドTと3連勝。特にニュージーランドT(当時は東京芝1400メートル)は最後方からの一気差しで外国産牡馬No・1のブレーヴテンダーを破っている。本番でも単勝オッズ2・0倍の1番人気。2番人気がブレーヴテンダーで3・8倍。
現代だと
シーキングザパールはおそらく単勝1倍台。だが当時は
ヒシアマゾンや
エアグルーヴが出ていたとはいえ、まだ牡馬優勢が通常の見方。牡馬相手に重賞を勝ちまくった
シーキングザパールをもってしても、単勝支持率は39・7%にとどまった。
レースは、のちの牝馬黄金時代に先駆ける文句なしの強さ。前走ニュージーランドTは前述の通り後方一気だったが、このレースはすんなり6番手。「無理に抑えるつもりはなかった。スタートして自然といい位置にいけた」と
武豊騎手。2番人気ブレーヴテンダーがすぐ隣。同馬鞍上の
松永幹夫騎手は「意識したわけではない。たまたま隣り合っただけ」と意図的なマーク策は否定したものの、近くにいるなら仕掛けのタイミングを測るのは当然。
武豊シーキングザパールは手綱をしごくだけで坂下からぐんぐん進出。並んでいたブレーヴテンダーの
松永幹夫は「じっくり行くよう心がけた」と、仕掛けのタイミング自体は相手の動きを待ってひと呼吸置く申し分ないもの。それでも先に抜け出した
シーキングザパールを脅かすには至らない。「
シーキングザパールは4角で引っ張りきりの手応え。この馬もよく走っていますよ。それ以上に相手が強かった。それだけです」と
松永幹夫も相手を称賛しきり。抜け出した勢いそのままに
シーキングザパールがフィニッシュ。2着ブレーヴテンダーとの着差は1馬身3/4だったが、完勝の内容だった。
武豊も賛辞を惜しまない。「本当に素晴らしい牝馬です。ぼくはただ乗っていただけ。こんな馬に巡り合えて幸せです」と絶賛。この時点で「ヨーロッパ、アメリカ…いろいろレースはありますから」と海外遠征に思いをはせた。競馬ファンも引退した
ヒシアマゾンに代わる次代の女傑(候補)登場を歓迎した。
実際のところ、
シーキングザパールはその後、国内では1勝にとどまり「女傑」と呼ばれることはなかったが、ユニークなルートを切り開くパイオニアとなった。翌年夏にフランス遠征を敢行してG1
モーリスドゲスト賞を優勝。日本調教馬として欧州で初G1制覇の快挙を果たした。99年には米国にも遠征し、サンタ
モニカハンデキャップに出走(4着)。
さらには息子の
シーキングザダイヤが南米チリで種牡馬としてリーディングサイヤーを獲得。自身とその血脈が世界を股にかけて活躍している。
スポニチ