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2万頭余が犠牲になった沖縄戦を語る馬魂碑

スポニチ
  • 2023年08月16日(水) 10時15分
 ▼太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦となった沖縄で犠牲になった2万頭余の馬も15日、78回目の終戦記念日を迎えた。競馬記者がテーマを考え、自由に書く東西リレーコラム「書く書くしかじか」。今週はライフワークとして沖縄の馬文化を研究している東京本社・梅崎晴光記者(60)が担当。4頭に3頭が命を落とした馬の沖縄戦を最後の激戦地となった本島南部の糸満市から振り返る。

 停電や断水の被害をもたらした台風6号が過ぎ去った沖縄本島南部の糸満市真壁。沖縄戦最後の激戦地としても知られるその集落の外れには馬魂碑がひっそりとたたずんでいる。街路樹をなぎ倒した猛烈な暴風にも耐えたコバテイシの大樹が、優しい陰影をつくる碑の周辺は深い静寂に包まれた祈りの空間。そこだけ時間が止まっているようだ。馬魂碑には「愛馬よ、安らかに眠れ 野砲兵第四二聯隊 戦友有志」と刻まれていた。旧満州から沖縄へ転戦し、真壁が終焉(しゅうえん)の地となった旧陸軍第24師団・野砲兵第42連隊の残存兵と遺族が90年に建立したものだ。

 「輓馬(ばんば)部隊だけに在満時代からの数多くの軍馬も共に戦野を駆けたが、日を追って斃(たお)れる数を増やし戦火の消えたとき、ついに一頭の姿も見ることはなかった」。馬魂碑の隣に建てられた同連隊の慰霊碑「鎮魂」にはこう記されている。

 梅雨期に入った沖縄本島の血で血を洗う地上戦。軍事史に詳しい大瀧真俊・名城大准教授の調べによれば、同師団が旧満州から連れてきた400頭の軍馬に沖縄県内で新たに徴発した2600頭を加えた3000頭の馬が野砲兵らに叱咤(しった)激励され、6頭1組で2トンの大砲をひいた。栄養不足で細くなった四肢を泥道に滑らせながら…。心ある砲兵にとっては共に苦労を重ねた相棒だった。「復員もなく、骨も帰れない馬が不憫(ふびん)だった」。北海道新聞(05年2月10日)によれば、同連隊の元下士官が戦後、北海道から沖縄を訪れ戦友の遺骨と共に軍馬の骨も収集したという。軍隊に配属されなかった馬は県内15カ所に計画した軍用飛行場の突貫工事に動員された。

 馬は避難壕(ごう)に隠れることができない。地上に取り残され、「鉄の暴風」と呼ばれる艦砲射撃や機銃掃射の標的になった。「上空から三機の敵機が攻撃し、あっという間に火の海…私(当時15歳)は祖父が大事にしていた種馬を助けに家に走ったが、家も馬小屋も燃え落ち、馬も弾に当たってすでに死んでいた。私は壕に戻り、祖父に馬が死んだことを泣きながら告げた」(玉城村史=住民・山之端宏正さんの証言)

 沖縄県内の飼育馬は44年の3万1914頭から沖縄戦(45年)を挟んだ46年には7731頭に激減。泥沼の日中戦争では約半数の軍馬(約12万頭)が犠牲になったとされるが、沖縄戦では4頭に3頭が命を落とした。戦争孤児になった離乳前のやせた子馬が焼け跡をさまよったという。「馬どころか、倒れた人を振り返る余裕さえない時代だった」。元重砲兵の津嘉山正弘さん(嘉手納町)は記者の取材にこう語った。

 「馬どころではない」。1年半に及ぶロシアのウクライナ侵攻でも耳にする言葉だ。戦前にけい養されていたウクライナ馬約10万頭の大半が地下シェルターに入れず、空爆、艦砲射撃などで犠牲になった。歴史は繰り返す。78回目の終戦記念日を迎えた馬魂碑は馬に犠牲を強いる戦争の歴史を雄弁に語っている。

 ◇梅崎 晴光(うめざき・はるみつ)1962年(昭37)生まれ、東京・高円寺出身の60歳。90年から中央競馬担当、デスクなどを歴任。著書「消えた琉球競馬」(ボーダーインク発行)で13年度JRA賞馬事文化賞、沖縄タイムス出版文化賞を受賞。

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