東京競馬場で1月28日(日)に
根岸ステークス(4歳上・GIII・ダ1400m)が行われる。
JRAのダート重賞としては3番目に古い歴史を持つ競走。何度かの条件、時期の変更を経て、現在は
フェブラリーSへの前哨戦として定着している。
そんな
根岸Sの“根岸”とは。現在の横浜市中区根岸台にあった横浜競馬場(旧名:根岸競馬場)の所在地を意味する。JR京浜東北・根岸線の山手駅、根岸駅から小高い丘に向かって歩くこと約20分。根岸森林公園および根岸競馬記念公苑の中に3つの塔がとび出た立派なコンクリート造りの建物が見えてくる(=写真)。これが1929年に完成したかつての旧根岸競馬場一等馬見所。80年前に役割を終えているが、今でも公園の
シンボル的な存在になっている。
JRAのホームページや、公営財団法人馬事文化財団のホームページによると、根岸競馬場のルーツは江戸時代まで遡る。
ペリー来航によって200年以上に渡った鎖国が終わりを告げると、横浜の近郊は外国人の居留地とされ急速に発展。居留外国人によって現在の元町や港が見える丘公園、山手駅付近で洋式競馬が開催されたが、いずれも短命にて終わった。コースも専用のものではなく、場所も定着しなかったことから、恒久的な競馬場設置へと機運が高まっていった。
1866年にはイギリス駐屯軍の将校らが設計、監督し、日本初の本格的な競馬施設「根岸競馬場」が建設された。当初はイギリス人が中心となって運営されていたが、徐々に日本人も参加するようになり、1880年には日本レースクラブが創設。名誉会員には宮家が、正会員には政界の重鎮も名を連ねるようになった。根岸競馬記念公苑内にある『馬の博物館』には、初代内閣総理大臣・伊藤博文の複製勝負服も展示されている。
同競馬場では1905年から
エンペラーズカップ(天皇賞のルーツとされる)や、1939年から横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の
皐月賞)など現在まで続くような大レースが次々に行われ、全国に広がっていった競馬ブームのはしり役、西洋競馬のモデルとなっていく。一時は馬券発売禁止によって冬の時代も迎えたが、1923年には旧競馬法が成立して公式に「馬券」が認められると再び市民権を獲得。レジャーのひとつとして世間に定着し、売上や規模も成長していった。だが終わりは突然。第二次世界大戦のあおりを受け、1943年にはやむなく閉場し、73年間の歴史にピリオドを打った。
終戦後も競馬が再開されることはなかった。1969年に連合軍から土地が返還されたが、すでに周囲が住宅地となっていたことや、戦中から戦後にかけて土地利用がされていたことから、競馬場としては再開せず、公園として整備。これが現在の根岸森林公園および根岸競馬記念公苑であり、市民の憩いの場となっているほか、先述の『馬の博物館』(※1月29日〜当面の間休館)では競馬や馬の文化、歴史を学ぶことができる。
JRAダート重賞として長い歴史を持つ
根岸Sのレース名には、
ペリー来航から端を発する日本競馬繁栄までの物語があった。もし、横濱に競馬が持ち込まれていなければ、いまの日本競馬は無かったかもしれない。きょうも一等馬見所は市民を見守りながら、日本競馬の歴史と、根岸に競馬場があったことを伝えていく。