来月末をもって現役を退く
的場文男騎手が17日、
大井競馬場で引退会見を行った。1973年にデビューし現役生活は半世紀以上。会見では唯一手の届かなかった大井のビッグレース・
東京ダービーへの思いも語った。
地方通算勝利数は歴代1位となる7424勝(うち重賞154勝)。1977年のアラブ
王冠賞を
ヨシノライデンで制したのを皮切りに、
東京大賞典や
帝王賞など
ビッグタイトルを数多く手中に収めてきたが、
東京ダービーだけは勝てなかった。的場騎手にとって同レースは夢や目標であり、まさに因縁ともいえる存在。通算39回騎乗して、2着は10回もあった。とりわけ86年~89年は3年連続、98年~99年、03年~04年には2年連続で2着。アラブダービーは3度制していながら、サラブレッドのダービーには縁がなく“大井の七不思議”とも言われた。
そんな的場騎手は「2着10回の中で、もっとも悔しかった
東京ダービーは」と問われると、「2着じゃないですが、93年の
ブルーファミリーですね」と回答。同馬はデビューから無敗で
京浜盃、
黒潮盃、そして三冠初戦の
羽田盃も制し、圧倒的な1番人気で大舞台に駒を進めた。「今年こそ」の思いは自身も強かったはず。ファンや関係者も多くが同じ気持ちを抱いていたことだろう。
当時の
東京ダービーは2400m。スタートしてすぐコーナーを迎えるコース形態から、外枠が圧倒的不利とされていた。当時は南関東に「外枠希望」なる制度が存在。陣営が要望すれば、ゲートを嫌がる馬、気性難の馬をあらかじめ外目に割り振るもので、
ブルーファミリーも
東京ダービーでこれを希望し14頭立て14番枠となった。だが、レースでは出遅れたうえ、外々を回る形となり、桑島孝春騎手が騎乗したプレザントの逃げ切りを許す。的場騎手は「今みたいに外枠希望ができない時代なら、真ん中くらいの枠から勝っていたんじゃないかな」と、悔しい表情を浮かべながら当時を振り返った。
98年
ゴールドヘッド、18年
クリスタルシルバーはクビ差2着とあと一歩のレースもあった。的場騎手は「1回くらいは勝ちたかったね」と話したが、一方で「2着10回も記録でしょう」と誇らしげ。今したいことと聞かれても、開口一番「競馬に乗って勝ちたいです」と目を輝かせた鉄人は、数々の“金字塔”を残して表舞台を去っていく。